1970年、初めてのチェコ

「ねえ、この手帳かわいくない?」「かわいい!なんか、なつかしい感じ」
 若い女の子が手にしている手帳の表紙には、「Kolik to stojí ?」(これはいくらですか?)というチェコ語の文字がデザインされている。「へえ〜」と思いながらも、複雑な心境だった。チェコ語というのは、東京都ぐらいの人口しかいないチェコ人の言葉である。それがいつの間に“かわいい日本の雑貨”の仲間入りを果たしたのだろう? チェコは日本にとって長い間、遠い遠い未知の国だと思っていた。私は、チェコへ到着したあの晩のことを、昨日のことのように思い出す。

 母と3歳の妹と共に、父の待つプラハのルジニェ空港へ降り立ったのは1970年の8月。ガラーンとした空港の、簡素なドアを開けるとそこが到着ロビーで、父の姿を見つけるとホッとした。半年ぶりの父との再会。「プラハの春」事件の後、新聞社のプラハ支局を作るために、父はすでに1970年の2月からプラハに赴任していた。

プラハの街
プラハの夜の街に、オレンジ色のあかりが灯る。70年代には、まだガス灯も見られた。

 家に向かう車の中で、私は助手席の窓を開けて風にあたっていた。プラハの街はオレンジ色だった。まぶしいネオンもない。ぼおっと灯る街灯が、固くドアを閉ざした石の建物や道を照らしていた。車がガタガタするのは石畳の道のせいだということもわかった。車もあまり走っていなければ、人も歩いていない。静かな夜だった。

 「チェコでチョコをたくさん買ってきてください」と、クラスのお別れ会で言われたことから“チェコという国は、きっとお菓子のあふれる楽しくて明るい所だろう”と勝手に想像していた。だから「これはちょっと違うぞ」と、子ども心に感じた。日本の友達は「チェコからチョコ」の連想をしたのだろうが、国の名前も正式には「チェコスロヴァキアシャカイシュギキョウワコク」という、長くていかめしいものだった。

プラハ10区に暮らす

 私たちが最初に住んだアパートは、緑の多く残るプラハ10区にあった。広い並木道路に面して建つ、広さ2LDKの新しい5階建てマンションだった。

 言葉がわからないまま、いきなり始まった初めての外国暮らし。早くチェコの生活に溶け込もうと、母もチェコ語を一生懸命に覚えようとした。

プラハ10区のアパート
右端にいるのは、友達のアティンカ。戦後すぐのギリシャ内戦を逃れて、チェコスロヴァキアへ亡命してきたギリシャ人一家の次女で、彼女はチェコ生まれ。

 「チェコ語で“こんにちは”は、“ドブリーデン”。忘れそうになったら、どんぶりを思い出せばいいのよ」と母に教わった。おかげで、最初に覚えたチェコ語は、チェコにあるはずのない「丼」の絵のイメージで私の脳裏に焼きついた。

 私と妹が家の前で遊んでいると、近所に住む1歳年上のヤナという女の友達ができた。ヤナが家に遊びに来るたびに、母は鉛筆と紙を持って「これは何?」「これは何?」と電気製品や野菜などを指差してチェコ語の名前を教わっていった。キュウリは“怒る気(okurky)”、キャベツは“ゼリー(zelí)”という具合に、日本語に関連づけると覚えやすかった。

 もっとも、初めの頃は勘違いや失敗もたくさんあった。お手伝いさんのエリザベーターは、体も声も大きくて、話しかけられると怒られている気がした。そんなある日のこと。「スブタ、スブタ!」と繰り返し言われて困った私は、母に聞いた。

 「エリザベーターがスブタ、スブタって言うんだけど、酢豚を作るってこと?」これには母も首をかしげた。父がいるときにエリザベーターは再び「スブタ、スブタ……!」を繰り返した。すると、「ああ、土曜日にうちへ遊びにいらっしゃいってさ」とロシア語のできる父が理解して、スブタsobota(正しい発音はソボタ)は酢豚でなくて土曜日だということが、やっとわかった。

 「プラハの春」とよばれた1960年代後半に起きた民主化と自由化の運動は、「社会主義再生の最後のチャンス」と言われたが、68年の8月、ソ連の率いるワルシャワ条約機構軍によるプラハ進攻によって踏みにじられた。皮肉にも、この事件でチェコは、一気に世界の同情と注目を集めることになった。
 私がプラハに来たのはそのちょうど2年後にあたる8月。「プラハの春」事件のことも、その重さも何も知らなかった。もしこの「プラハの春」事件がなかったら……今の私はなかっただろう、と運命的なものに気がついたのは、それよりずっと後のことだった。