親元から離れて行った 森の中の学校
森の中の学校 スクレナーシカ
スクレナーシカの庭で、輪になって遊ぶ子ども達。ここの館が、自然の中の学校の宿泊所だった。

「スクレナーシカ」と聞いたとたん、なつかしさで胸がいっぱいになる。スクレナーシカは、チェコの小学校4年生のときの「自然の中の学校」という移動教室のような学校行事で訪れた、思い出深い場所。プラハの親元を離れて、先生や同級生と秋の2週間を共に過ごした。
この「自然の中の学校」の舞台になったのは、おとぎ話に出てくるような、森の中にぽつんと1軒だけ建つ白い館と、広い庭。庭には、噴水だったと思われるものもあった。ここの館と敷地はその昔、伯爵か資本家が所有していたと思えるような立派なものだった。きっと社会主義時代に国に没収されて、学校関係の宿泊所となったのだろう。

森の中の学校 スクレナーシカ
自然の中の学校での授業風景。工作で、お芝居の衣装のような物を作る。

庭が広いだけでなくて、管理人さん一家の飼う色々な種類の犬や猫、孔雀までがいて、都会っ子には信じられないような恵まれた環境だった。館の1階にあった大きなサロンは、食堂、教室、ミーティングルームとして使われた。幅広の階段を上ると2階が寝室だった。女子10人ほどのベットが、見事にずらっと並んで入るほど、大きな部屋。
この「自然の中の学校」に、なぜか当時4歳の保育園児だった妹も参加していた。妹にも、自然の中での共同生活をぜひ体験させようと思って、親が先生に頼んでのことだろう。驚くのは、すんなりと受け入れられたことだった。小学校の先生が、4歳の外国人の子どもを預かるなんて、なんて懐が深いのだとうと思う。担任のフリノヴァー先生は、妹のことをかわいがってくれたし、友達もよく相手をしてくれたのだが、姉としては泣きたくなることもたびたびあった。
外に出る時に、妹の紐靴(チェコは小さいころから紐靴を履く)を結んであげている間にみんなはとっくに集合していて、いつも最後になってしまった。妹のことでは他にも、ちょっとドキッとする事件があった。館で働くおじさんが酔っ払って夜中に女子部屋へ忍び込み、妹の頬に触ったらしかった。妹が大声で泣いて大騒ぎになったが、そんな時は本当に親がいないことが心細く感じたものだった。

時にハプニングもあったが、「自然の中の学校」の毎日はプラハの学校とはだいぶ様子が違っていた。朝食の後、午前中いっぱいは担任のフリノヴァー先生の授業が行われたが、先生も何だかのんびりしていた。工作も時間をかけてゆっくり作ったし、教科書を開いてみっちり勉強させられた記憶がない。チェコでは宿題はもともとないので、夜はゲームをしたり、おしゃべりをする自由時間がたっぷりあった。

おとぎ話を聞きながら 森の奥へ、奥へ……。
森の中の学校 スクレナーシカ
授業はのんびり行われた。中央に担任のフリノヴァー先生。その隣に4歳の妹がちゃっかりすわっている。

また、プラハの小学校では給食がなかったので、昼食の時間にみんなと食べるごはんも楽しみのひとつだった。きのこのスープやクネドリーキ(蒸しパンのような添え物)やじゃがいもの料理。おやつには、黒パンのサンドイッチやコラーチ(焼き菓子)が出たりした。午後になると「森の散策」というのが日課にあり、しっかり厚着をして森へ出かけたのだが、少し寒くなった森の中の枯れ枝や苔を踏みしめながら歩く。先生の、自然についての話しやおとぎ話、伝説などを聞きながら森の奥へと歩いていくのは、幻想的だった。日一日と秋の深まる森は、時に私たちを守ってくれているようにも感じ、時に言い知れぬ怖さも秘めているような、そんな不思議な体験をしたスクレナーシカだった。

森の中の学校 スクレナーシカ
工作の時間に作った物を身につけて。

1999年の夏。森の中のがたがた道を車でしばらくゆくと、視界がぱっと開けた。見覚えのある風景だった。「スクレナーシカへ行ってみたい」という母の希望で、友人のミロニュに運転してもらい、道の途中で何人にも尋ねながら、ようやくたどり着いた。あの「自然の中の学校」の年から数えて30年近く経っている。あの管理人さん一家は、もう住んでいなかった。館は、ちょうどレストランかホテルにするために、工事人が改装の最中だった。館のテラス席で、お茶を飲みながら館を眺めると、案外小さく感じた。30年という歳月を経て、スクレナーシカの役割も変わり、人も変わった。変わらないのは館の外観と美しい庭。
スクレナーシカという地名が、「窓ガラスなどを扱うガラス職人」という意味があると、ここへ来る車の中でミロニュに教わった。壊れやすい思い出は、そっと心の奥にしまっておくことにしよう。テラスからぼんやりと目の前の館を見ていると、幼い自分や友達の姿が今にも動き出すような気がした。