気が張り詰めていたプラハでの大学生活
はげ鷹クラブ
チェコ語を共に学んでいた同級生、フランス人のナジャがチェコ人男性とめでたく結婚。花嫁の隣がやはり同級生でフランス人のアン、その隣が東ドイツ人のアンゲリカ。プラハの旧市街広場の市庁舎で式を挙げた後に記念撮影。
はげ鷹クラブ
カレル大学のチェコ語の授業は、Celetna(ツェレトナー)通りで行われることもあった。毎日のように歩いた道は、ボヘミアの王が聖ヴィート大聖堂で戴冠式を行うのに行列が通った由緒ある通り。写真は旧市街広場の天文時計の方を眺めたところ。"はげ鷹"のメンバーと体操の帰りに寄ったビアホールU Supa(はげ鷹)があった通りでもある。

 子どものときにチェコで過ごした思い出は、どれも温かく楽しいものだ。家族とたくさんのチェコ人に囲まれて、何の不自由もなく、何の心配もなく小学校時代を過ごした。それから10年あまり経った80年代半ばに、今度はひとりでプラハの大学に留学することになった。ところが、夢をふくらませて渡ったチェコでは、“社会主義の国に外国人がひとりで暮らす厳しい現実”が待ち受けていたのだった。

 大学に行き始めて間もなくの頃。喫茶店に4人の学生で入ったことがある。初対面だった男子学生のひとりが、お茶を飲みながら言った言葉にあ然とした。
 「このテーブルに4人座っているけど、もし、この中にスパイがいたとしたらどうする? 絶対いないって、君は言える?」
 日本では、スパイなんて言葉は、映画や小説の中でしか聞いたことがなかったから、返答に困っていた。すると学生は続けた。
 「人が4人揃ったら、その中のひとりを疑えって。これ常識だよ」
 この学生とはそれきり会うことはなかったが、言われた言葉が脳裏に焼きついて離れなくなってしまった。
 それはまだまだ序の口で、

  • 「最初から親しげに外国人のあなたに近づく人には注意しなさい」
  • 「外国人の電話は必ず盗聴されていると思った方がいい」
  • 「外国人の手紙は開封されてから届くらしい」
  • 「完全に信頼できる相手かどうか、また安全な場所かどうか見極めて物を言うように」
  • 「路上での外貨換金は絶対しないように」
 そんなアドバイスを受けて、神経が日ごとに張り詰めていった。

閉塞感のある生活の中「はげ鷹クラブ」へ
はげ鷹クラブ
留学中に撮影したカレル橋から眺めたカンパ島の雪景色。冬のプラハは誰をも詩人にするような魔術的な美しさがある。

 冬が近づいていた。
 当時のチェコスロヴァキアは、社会主義諸国の中の優等生と言われて、肉やパンや乳製品はいつでも買えた。でも、冬に買える野菜はジャガイモとタマネギとしなびたニンジンだけ。慢性的な物不足。買い物に行けば行列に並ぶ。おまけに窓口や店員は不親切ときている。言論、表現が制限された世界。自由に旅行できないチェコ人を覆う閉塞感。知人から聞く密告や裏切りの話。亡命に成功した人の話。
 再びチェコに来たいと切に願っていたのに、子ども時分とは違い、現実世界はあまりに過酷だった。

はげ鷹クラブ
80年代半ば、町中の壁に貼られていた展覧会やコンサートなどの催しのポスター。上からどんどん重ねて貼っていくので、ポスターが層になっているのが面白かった。

 あやうく人間不信に陥りそうになったとき、救いの主が現れた。昔父の秘書として働いていた日本語通訳で、小学生のときからよく知っているマルティン・ヴァチカージュだった。
 「ぼくたちの“はげ鷹クラブ”においでよ。毎週エアロビクスをして、その足でビアホールに行っているから」とマルティンに誘われた。クラブの名、“はげ鷹”は、チェコ民族の身体的強化と民族意識の高揚を目的として19世紀中ごろに設立された体育協会ソコル(鷹)をもじったものだという。
 「“体操と交流”を目的に、20代から30代の映画監督や建築家、女優やカントリーシンガー、心理学者なんかが来ていて、君にとってもきっと面白いと思うよ」

 さっそく私も参加することにした。エアロビクスでひと汗かいた後に決まってよるのが、旧市街広場から伸びるCeletna通りのビアホールu Supa(はげ鷹)。ビアジョッキを傾けながら、ひとりずつ話す政治やエロティックなフティップ(小話やジョーク)の落ちに大爆笑して、えもいえぬ爽快感を味わった。絶対的に信頼のおける仲間ならではの、うちとけた顔と安心感の漂う空気が、“はげ鷹クラブ”にはあった。
 エアロビクスだけでなく、劇場では非公開だったアメリカ映画『ディア・ハンター』のビデオを、女優の家に集まって観たり、週末や休暇にはメンバーの別荘へ出かけ、冬はクロスカントリースキーを楽しんだ。

協調性のないメンバーたち その理由は……?
はげ鷹クラブ
大学主催の小旅行で。ここにいるのはチェコ語を学んでいた学生たち。西ドイツ人、イタリア人、キューバ人、日本人などなど国際色豊か。

 数ある思い出の中でも、語り草になっている出来事がある。マルティンの親が所有する北ボヘミアはズデーデン地方のヨゼホフドルフの別荘に行ったときのこと。ドイツでよく見られる木組みの美しい家だった。戦後、空き家だったのを破格の値段で入手したという。

 マイナス5度か10度という気温の中で別荘に到着すると、薪ストーブに火を入れてもすぐに暖まらず、しばらくは部屋の中でもコートや帽子をかぶったまま過ごした。震えながらお茶をすすり誰もが動きたがらず、お茶のお代わりを入れてくるのは誰だ、といつも通り丁々発止のやり取りになった。

 「キッチンに一番近い君が行けよ」と皮肉屋のヨゼフが言えば、
 「飲みたい人が作ってきなさいよ」と口から生まれてきたような女優が応戦する。
 「そうだ。ここには素晴らしい日本人女性がいるじゃないか。こういう時にはさっとお茶を入れて来てくれるはずだよね?」

 ヨゼフのこの一言に、私の中の何かが反応してしまった。やりきれない思いがしてキッチンではなくてトイレに入った。すると、とめどなく涙があふれてきた。この人たちに協調性はないのだろうか? みんな、なんて自分勝手なんだろう。皮肉や相手をやっつける言葉だけは達者だ。信頼しきっていた仲間から受けた扱いに傷ついた。
 しばらく冷凍庫のようなトイレにこもっていると、マルティンが私を探しに来た。みんなは事の成り行きに驚き、さすがに同情してくれているようにも見えた。でも、「トイレに入って泣いていた日本人女性」はすぐに、マルティンたちの笑いの種になってしまった。

「はげ鷹クラブ」が必要とされた時代
はげ鷹クラブ
東ドイツの友人アンゲリカたちと寮でパーティーを開き、学校の先生も招いた。アメリカ人、西ドイツ人、バングラデシュ人、フランス人、ハンガリー人が参加。簡単に行き来ができなかった東ドイツと西ドイツの人間もこうしてチェコで接する機会があった。東西冷戦時代ならではの貴重な経験だった。

 マルティンと2004年の冬に再会した折、例のトイレ事件の話題になり、ひとしきり笑った後で当時のことを振り返って彼が言った。

 「有子があのとき言った『みんなで協力してやりましょう!』的なものは、日本なら普通かもしれないけど、彼らにとって集団主義や政治的スローガンを思い出させるネガティブなものとして受け取られてしまったんだよ。日常的に聞かされて、うんざりしていたからね。それから“はげ鷹クラブ”の掟のひとつに『他人に情け容赦なく皮肉を浴びせる』というのがあったの、知らなかった? みんな相当鍛えられた連中ばかりだったから、有子にはちょっと可哀想だったかな」

 “はげ鷹クラブ“は、あの社会主義の時代に、知識人やアーティストが、かろうじて精神のバランスを保っていくために必要なものだった。不条理の世を生き抜く彼らの知恵に今さらながら驚き、20年を経て私もようやく実感できるのだった。
 “はげ鷹クラブ”は、ビロード革命後に自然消滅して、メンバー同士もめったに会わなくなったという。同じビアホールに毎週集まる、あんなに親密だった人間関係がなくなったのは寂しい。彼らにとって、“はげ鷹クラブ“がどのような存在だったのか、いつか再会したときに聞いてみたいと思った。