1990年のドイツ再統一まで、ドイツ連邦共和国は東ドイツ(ドイツ民主共和国)と西ドイツ(ドイツ連邦共和国)に分かれていました。今回の舞台は1985年、まだ中部ヨーロッパの歴史が大きく動き始める前、木村さんがチェコスロヴァキアのカレル大学に留学していた当時のこと。そこには一つの大きな壁がありました。

未知の国、東ドイツの女の子
東から来たアンゲリカ
チェコ語クラスのパーティーを学生寮で開いた時の写真。アンゲリカ(右)とヨハンナがリコーダーを披露。アンゲリカはギターでも次々と曲を弾いて、みんなで歌った。はにかみ屋なのに、面白いことを企画したり実行するのが得意な女の子だった。

チェコの大学に留学しているとき、外国人向けのチェコ語クラスで一番親しくなったのは、アンゲリカという学生だった。ショートヘアにジーンズがよく似合う、ボーイッシュな女の子。最初は、少しおどおどと話すような印象があった。東ドイツ(ドイツ民主共和国)のイェーナ大学で神学を専攻する学生で、プラハでチェコ語と神学を1年の予定で勉強していた。
アンゲリカのプラハの学生寮は、中心部にあった。ナーロドゥニートゥシーダ通りから、少し左手奥に入った辺り。「寮にお茶を飲みに来ない?」と誘われ、同じ東ドイツ出身のヨハンナと一緒に行くことがあった。アンゲリカは、紅茶を大きなポットにいっぱい作ると、ポットを暖めるために固形燃料に火をつけ、ついでに部屋の照明も消すと、ろうそくを灯した。外がどんなに寒い日でも部屋は暖かく、紅茶とろうそくの灯にホッとしてくつろいだ。
ろうそくの炎を飽きずに眺めながら、憶えたてのチェコ語で日本や東ドイツの暮らしや、チェコで感じたことのあれこれを話した。日本の習慣や家族、女性の社会的地位についてよく尋ねられた。東ドイツもチェコ同様、西側の情報は国に管理されていたので、日本人の私を通じて聞きたいことがたくさんあったのだろう。一方私も、未知の国東ドイツについて興味があった。
ドイツといえば、子どもの頃プラハから車で親と買出しに行った西ドイツをすぐに思い浮かべた。ドイツは、第2次世界大戦後国が東西に分断されて、東ドイツはチェコもそうであるように、政治的にソ連が率いる東のブロックに組み込まれた。 プラハのレストランで時々見かけたのは、東西ドイツの差を象徴する光景だった。大声で騒ぐいかにも羽振りのいいグループは西ドイツからの観光客で、チェコ人に煙たがれていた。一方、目立たないように声を潜めて食事している外国人は、東ドイツ人ということが多かった。態度や服装からして誰の目にも明らかなこの差。こんな時、西ドイツ人と居合わせた東ドイツ人の胸の内を、聞いてみたい思いがした。

時折ちらつく不安の翳り

アンゲリカと交わした話の中でも特に驚いたのは、“旅行の制限”についてだった。チェコ以上に厳しく、自分の耳を疑うほどだった。
「東ドイツでは、一般の人は定年を迎えないと西側へ旅行する許可が下りないのよ。両替できる金額も本当にわずかで、親戚や友人の援助がないと実際には無理ってこと・・・」とアンゲリカ。
当時、チェコ人は西側への旅行は難しかったものの、ブルガリヤやユーゴスラヴィア、ハンガリーに夏の休暇で訪れている人が多かったのを思い出した。だが、東ドイツ人が簡単に行ける国は、チェコとポーランドぐらいしかないという。
話したい内容にチェコ語の語彙力が追いつかず、歯がゆい思いもした。ある時、アンゲリカのした質問で今でも忘れられないことがある。
「チェコ語で“怖い”という単語を知っているけど、その反意語は?」
私もヨハンナも知らない、と首を振った。すると、アンゲリカが
「私も知らないわ。それは、私達の考えが、いつも“怖れ“の方を向いているからなのよ。どうして今まで、反意語を知らないできたのかしら?」
一同は押し黙ってしまった。彼女達との会話には、確かに“私は〜が怖い”のような表現が頻繁に出てきたように思った。私は、チェコで感じていた自由のなさや、管理された社会の息苦しさがいやになって、逃げ出そうと思えば逃げ出すことができた。だが、彼女達は自国の東ドイツに戻ればチェコと同じか、さらに厳しい現実が待っている。彼女達が将来に抱く不安の影を、その時見た気がした。

初めての東ドイツへ

3ヶ月ほどの長い夏休みを、どう過ごそうかと考えていたある日のこと。アンゲリカがはずむような口調で私に言った。
「夏休みに、よかったら東ドイツに一緒に来ない?まず、ドレスデンのおばあちゃんの家に寄って、次に私の大学があるイェーナ。最後に東ベルリンって、どう?」
思いがけない申し出に嬉しくなって、二つ返事で承諾した。そして、東ベルリンまで行くのなら、西ベルリンにもぜひ行ってみたいと思った。アンゲリカが、一緒に西側へ行けないことを知りながらも、自分が西ベルリン行きたいことを伝え、結局東ベルリンまでの行程を共にすることにしたのだった。
準備を始めると、チェコから東ドイツへ行くことがどれだけ大変なことか、そのときはまだ想像もつかなかった。アンゲリカはすぐ実家に頼んで、私を招待すると書いた手紙をプラハに送ってもらった。この招待状かホテルを予約したバウチャーがなければ、東ドイツへのビザが下りないという。手紙が着くと、アンゲリカとプラハの東ドイツ大使館へビザの申請に行った。申請してから許可が下りるまで数週間かかるし、再入国ビザの申請も大学の事務所や警察署へ出向いて手続きしなくてはならなかった。国際列車の切符を買うのも半日がかりで、全ての書類と切符を揃えたときには、やれやれという気持ちになった。ひとりでは揃えることはできなかっただろう、と思うほど手続きが煩雑だった。

夏の快晴の日、アンゲリカと国際列車に乗ってプラハを発った。久しぶりの旅行なので、わくわくしていた。日本のパスポートを持っていても、チェコ留学中の身では、少なくとも3週間ほど前に再入国ビザを申請してからでないと外国へ出ることができなかったので、解放感に浸っていた。そして、エルベ川沿いを走る列車から見る、美しい風景に心を奪われていた。

国境警備兵

やがて列車は重い金属のブレーキ音がして、チェコ−東ドイツとの国境の町デェチーンに止まった。窓の外を見ると、警察犬を連れた国境警備兵が15メートル間隔くらいに並んで、車両の下を覗いて亡命者が隠れていないか点検している。最初はチェコの国境警備兵が、続いて東ドイツ側の国境警備兵がふたりずつコンパートメントにやって来て、パスポートの提示を求めるのだった。さっきまでの楽しい雰囲気はどこかへ吹っ飛び、アンゲリカの顔が緊張のあまりゆがんでいる。いかめつい顔をした東ドイツの国境警備兵が来た。座席の下をさぐり、荷物1点ずつを眺め回した。パスポートを提示したとき、あなたの荷物はどれですか? と聞かれた。指でさすと、網棚から下ろして開けなさい、という。アンゲリカの顔をちらと見ると、私と目を合わせずに息を潜めている。私のかばんを開けて、面前で国境警備員が中身を細かく検査しだした。私物を皆に見られるなんて、と恥ずかしい気持ちと、なんでそこまで、という理不尽な気持ち、それに国境で下ろされてどこかへ連れていかれたら、というあらぬ考えが頭をよぎった。最後には、化粧ポーチを開けられて、その中に入っていたチェココルナ札を取り出し、何か言われた。チェココルナの持ち出し額が規定より多いので、国境で預かると言っているようだった。それは、チェコでお世話になっているアンドゥルロヴァーおばさんから頼まれた毛糸や、写真家でもあるイェルカから頼まれたカメラのフィルム“AGFA FILM”を買うお金だったのに、と内心思った。制服姿で威圧的な態度の国境警備兵と、コンパートメントに乗り合わせた人たちの、我関せずの雰囲気が戦争映画などのシーンにそっくりで、背筋が凍る思いをした。