ドレスデン、イェーナ、エアフルト・・・ そしてベルリンへ。
東から来たアンゲリカ
ドレスデンは、もともとバロック建築とエルベ川の景観が美しい調和をなす町だったが、第2次世界大戦の爆撃で町は壊滅状態に。町の中心部の歴史的建造物は長い間修復されずにいた。アンゲリカによると、戦争の惨劇を忘れないために、聖母教会の瓦礫はわざと放置されているということだった。ドイツ統一後に修復が進み、聖母教会は2005年に再建工事が終了した。

東ドイツの旅はドレスデンから始まった。1945年の無差別爆撃より町の85パーセントが破壊されたという。町の中心である歴史的建造物のひとつ、聖母教会の廃墟などが修復されずに残っていて、戦争の痛ましい傷跡をさらしていた。爆撃をほとんど受けなかったプラハの町との違いに驚いた。夜は、アパートで一人暮らしをするアンゲリカのおばあさんの家に泊めてもらって、戦争の話を少し聞くことができた。
次に訪れた町イェーナでは、アンゲリカのルームメイトで植物学を専攻する女子学生に紹介された。シングルマザーになることを決めて、妊娠中だと嬉しそうに語っていた。東ドイツでは、シングルマザーを選ぶ女性も比較的多いと、そのとき聞いた。イェーナは小さな町で緑も多く、いかにものんびりした雰囲気。学生達のアパートにもいき、おしゃべりしたりお茶を飲んだりして、数日を過ごした。
イェーナ近郊のエアフルトは大聖堂と運河が印象に残る町で、案内してくれたアンゲリカの知人宅にひと晩ご厄介になった。古いアパートなのに、室内は手作りのもので工夫をして素敵に暮らしているのに感心した。エアフルトにはいいカフェもあって、チェコよりケーキがおいしかったのと、カフェ文化が社会主義の時代になっても地方都市に根付いているのを感じた。
いよいよ最後は、アンゲリカの出身地である東ドイツの首都ベルリンに着いた。アンゲリカの家は、野原が残るようなベルリンの郊外の一軒家だった。両親は旅行中だから自宅だと思って、と言われて気兼ねせずに過ごした。移動はSバーンという電車。まだ古い型の電車が走っていて、木の床に木のドアという趣があったのはいいが、ワックスの匂いが車内ですることもあった。車内は静かで、乗客の表情が硬いのが気になった。

東ベルリンでの数日間
東から来たアンゲリカ
「橋」というタイトルの東ドイツの絵本を、初めて東ベルリンへ行った1985年に購入。Heidrun Hegewald 画、Altberiner Verlag出版社の、冊子のように薄いテキストのない絵本。小川にかかる小さな橋と丘の風景が、日の出から日の入りまで変化していく様子を描いている。ムンクみたいだ!と見た瞬間に思った。空も丘も川も人も溶け合ってうねるような絵が、見ている側になんともいえない不安感を呼び起こす。

アンゲリカは、東ベルリンのショッピング街、テレビ塔のあるアレキサンダー広場に私をまず連れて行き、デパートや書店を見せてまわってくれた。本屋は、スーパーのカゴを入り口で持って入る仕組みで、本屋に入ったような気がしなかった。他の食料品店を覗くと、売っているものはチェコと似たりよったり。その後、アレキサンダー広場から、ウンター・デン・リンデンに至る通りを歩いた。広い通りと大きな建物群。プラハの町に比べたら作りが全て大きい。ベルリン大聖堂、フンボルト大学、オペラハウスと歩きながら案内されて、ウンター・デン・リンデンの突き当たりまで来ると、アンゲリカは言った。
「あそこにあるのが、ブランデンブルグ門で、ずっと張り巡らされているのがベルリンの壁よ。壁の向こうが西ベルリンなの」
警備されている立派なブランデンブルグ門が見えたが近寄れなかった。西ベルリンからは、1日ビザを取れば自由に東ベルリンへ来ることはできるのに、その逆はだめなの、とアンゲリカはため息まじりに言った。目と鼻の先にあって行けない場所。歩いて行って、突然行き止まりになる道が、首都ベルリンにあるのが不思議でならなかった。

東から来たアンゲリカ
フリードリヒシュトラーセ駅の東ベルリン側で、西ベルリンへ行くために行列をなす人々。1989年、ベルリンの壁が開いた直後に撮影。1985年にアンゲリカに見送られてひとりで西ベルリンへ渡るときは、駅に人影はほとんどなかったし、当時は写真を撮ることも危険だった。

ふたりで毎日町を歩いた。シュプレー川の中洲のようなところに美術館などが集まっていて、“博物館の島“と呼ばれていた。その中でもペルガモン博物館に、いたく感激した。
食事は、アンゲリカの両親のはからいで、と毎日レストランにつれて行ってもらった。外食費は安いようで、誰でも食べに行ける値段だったようだ。生野菜が極端に少ないのはチェコと同じで、夏なのにサラダを注文すると、チェコでもあまり食べないビーツという赤カブの瓶詰めのサラダが出てくることが多かった。

ふたたび国境、そして“ベルリンの壁
東から来たアンゲリカ
昔、プラハでチェコの劇団“ラテルナ・マギカ”を観たときに買ったパンフレットから、黄ばんだ新聞が出てきた。1985年12月24日クリスマスイブの、東ドイツのNEUE ZEIT紙。記憶をたどると、1985年のクリスマスもアンゲリカの東ベルリンの家で過ごしたので、そのときの新聞だろう。見開き1ページはクリスマス特集で、子ども向けのお話しと版画、レストランの広告のイラストなどが気に入って取っておいたらしい。東ベルリンのアンゲリカの家では、“きよしこの夜“の歌詞のような聖夜を過ごした。

東ドイツで10日余り過ごしただろうか。私の、西ベルリンへ行く日が訪れた。東ベルリンから西ベルリンへ。できればそのままアンゲリカと旅を続けたかったのだが、それは叶わぬ夢だった。
アンゲリカは、東ベルリンから西ベルリンへ電車で入国する際の国境でもある、フリードリッヒシュトラーセ駅まで送ってくれた。大きな駅なのに人の波も物音もなく、異様な雰囲気に包まれている。体育館のような建物が駅に隣接していて、別れの舞台なので“涙の宮殿”と呼ばれていたことを後に知った。時々、西ベルリンから戻って来たと思われるお年寄りが、国境検問所から出てくる姿が見えた。まるで、ブラックホールから出てくるような不思議さだ。自分もそこへ入っていくのかと思うと心細く、空恐ろしくもあった。
「じゃあ、私はここから先に行けないから、気をつけてね」アンゲリカがそう言って手を振った。
(アンゲリカと国境を越えることは無理なんだ)。残る側と立ち去る側。ふたりの間には、見えない壁がすでに立ちはだかっているように思えた。またプラハで会おうね、と約束をして軽い抱擁をして別れた。

検問所は、昔のチェコやロシアの空港にあるパスポート検査の雰囲気に似ていた。一人ずつ前に進みパスポートを見せる。長い時間顔を見られ、問題がなければスタンプを押された。東ドイツマルクも持ち出しが禁止されていたので、そのことも聞かれた。
国境を越えるといっても、検査の直後に、同じ駅の階段を上ってホームに出ると、そこが西ベルリンのフリードリヒシュトラーセ駅、という仕組みだった。モノクロ映画が、急にカラー映画に転換したようだった。私が今までアンゲリカといた世界など最初からなかったかのように、同じドイツ語を話す人々が、あでやかな服を着て、電車を待っている。私は1年ぶりくらいに目にする西側の広告や看板が珍しく、何よりもすべてがまぶしかった。とはいえ、貧乏学生の手持ちの西ドイツマルクは限られており、1回のバス代や電車賃が、チェコや東ドイツでの何食分にも相当することを知り、がく然とした。

“壁”の向こう側
東から来たアンゲリカ
ドイツ映画“善き人のためのソナタ“を今年2回観る。引き気味に観ようと意識した初回と違い、2度目はどっぷり感情移入する。時代背景が1984年11 月、私がアンゲリカとプラハで知り合った頃ともろ重なるからだ。映画と同時進行のようにアンゲリカや、チェコの知人の置かれていた困難な状況を思い出した。シュタージ(秘密警察)のヴィースラー大尉を演じる俳優ウルリッヒ・ミューエの演技は胸に迫るものがあった。そのミューエが最近亡くなったのは残念。

西ベルリンでは、チェコの知人から紹介された、女性ふたりで住むアパートに何日か泊めてもらった。東ベルリンでは近づけないベルリンの壁だが、西では壁の近くに行って、設置されている展望台から東ベルリン側を眺めることができた。壁は1枚ではなく、西ベルリン側と東ベルリン側の壁の間に、国境警備兵が監視をする場所があった。東から壁を越えようとして見つかれば、男女、子どもの区別なく銃殺刑になると聞いていた。
だが、その緊張も西ベルリン側にいるとあまり感じず、大きな西ドイツの一部にいるような錯覚を起こした。西ベルリンが西ドイツの飛び地で、類まれな状況下にある。そのことは、実際に陸路で東ドイツから西ベルリンへ入ることで、ようやっと少し実感できたような気がした。 戦争によって、こんなふうに人工的に国境やら町やら線引きをし、壁まで張り巡らせるなんて。
アンゲリカが生きている間に、西ベルリンから東ベルリンを見ることはあるのだろうか、と彼女の将来に思いを馳せた。プラハに戻ったら、アンゲリカに西ベルリンの様子を、何から語って聞かせよう・・・・・・。1985年当時、東西冷戦の行方に明るい兆しはまだ見えず、コンクリートでできた壁は、ずっと後世まで残るものだと、そのとき私は信じて疑わなかった。