確信
ベルリン1989
11月9日の夜、ラジオで東ドイツ人が国境を超えて西ベルリンへ入ってきたというニュースを聞いて、繁華街であるクーダムへ行った。 東から車で来た人々をひと目見ようと集まった人たちで、通りは大混乱に。

「どうも西ベルリンにも東ドイツ人たちが来てる、って言ってるようなんだけど・・・。
とにかくクーダムに行ってみよう!」
クーダム、と通称で呼ばれるクアフュルシュテルダム通りは、高級ブティックなどが並ぶ西ベルリンの中心地だった。
急いでジャケットを羽織ると夜ふけの街に出た。静まり返った町の空気は、ひんやりしていた。眠らない町西ベルリンでは、深夜もバスが走っている。わずか10分ほどでクーダムの中心部に着いた。カイザー・ヴィルヘルム記念教会に向かって歩いて行くと、ただならぬ気配を感じた。近づいていくと、交差点の周辺は黒山の人だかりではないか。人をかきわけるようにして、前へ前へと進んだ。

ベルリン1989
検問所のひとつ、チェックポイントチャーリーを超えて、東ベルリンから西ベルリンへ来た東ドイツの自家用車トラバント。西ベルリンでは新聞や宣伝用のタバコを配る人達も現れ、東ドイツ人を驚かせていた。
「あっ!トラバント!」
私は思わず声を上げ、自分の目を疑った。西では見ることがない、東ドイツの小型乗用車トラバントだったからだ。国境が開かれて、西ベルリンの中心部クーダムまで乗って来たのに違いない。フラッシュがたかれて、車中の人の感激している顔が見えた。車は群衆に囲まれて、それ以上前へ進むことはできなかった。車の周りでシャンペンを持って大声ではしゃぐ人々。トラバントの中から人が降りて来た。みんなの歓声が一段と高くなって、東ドイツ人はシャンペンを振舞われ、握手をされての大歓迎ぶりだ。交差点では熱狂が渦巻いていた。

第2次世界大戦の爆撃で、虫食いのようになってしまったカイザー・ヴィルヘルム記念教会にさらに近づいて行った。時計を見上げると、針は午前零時を回っていた。様々な時代を見てきた教会は、この歴史的大事件をどう眺めているだろうか、と思った。私達は興奮のるつぼにいるのは確かだったが、どうして国境が急に開いたのか。事の成り行きは、正直なところ飲み込めないでいた。ただ、“ベルリンの壁”が実質的に意味をもたなくなった、その決定的な出来事を目のあたりにしたことは事実だった。

崩壊直後
ベルリン1989
壁崩壊の後は、往来が自由になって、自動車でも徒歩でも人が続々と東から西へ入ってきた。壁のある頃に通過していたのは、主に西側の者か軍関係者という。
ベルリン1989
チェックポイントチャーリーの西側にあった有名な看板。
「これより先、アメリカの管理地区を離れます」
西ベルリンはアメリカ、イギリス、フランスに分割統治されていた。
ベルリン1989
ブランデンブルグ門の近くで、ベルリンの壁が公式に切断、撤去されることになり、セレモニーのようなものが行われた。制服を着ている東ドイツの兵士は、壁があったころの緊張した顔とは違い、うっすら笑みさえ浮かべている。

静かだったベルリンは翌日から、一気に毎日がお祭り騒ぎになってしまった。国境が開かれてから、東からどんどん人が入って来る。私たちのアパートがある一角は、安売り店も多いショッピング街だったため、東からの買い物客で込み合うようになった。アパートの窓から下の通りを見れば、いつもは人影がまばらなのに、人でごった返している。歩道のゴミ箱はバナナの皮で溢れていた。バナナは輸入品なので、東ヨーロッパの人にとってぜいたく品だった。チェコでバナナを買うために寒い冬に行列を経験した私には、東ドイツ人の気持ちが痛いほどわかった。
ベルリンは一夜にして世界の注目する所となり、特にブランデンブルグ門の周辺は、絶えず人が集った。壁によじ登る人、壁を削り取って持ち帰る人。写真を撮る人。壁の一部が政府によって切り取られ、検問所からは人々が自由に往来した。ベルリンの壁崩壊の歴史的な場面に居合わせた記念に壁を持ち帰ろうとする人も多かった。私達も近くにいた人に道具を借りて試みた。だが、ちょっとやそっとでは削れないほど壁は硬かった。壁のかけらを露天で売り始める人が現れるのに時間はかからず、その数も次第に増えていった。

測りかねる真意
ベルリン1989
東から来た家族が、西ベルリンの壁の前で記念撮影をしていた。壁の向こうに見えるのは東ベルリン側の建物。壁に接近していた東ベルリンの建物は使用されていなかった。
ベルリン1989
1989年11月9日の夜に東西ベルリンの国境が開き、この写真はその翌日に撮影した。 ブランデンブルグ門に近い場所の壁には、歴史的な大事件の現場をひと目見ようとする人が絶えず集まる場所となった。 ベルリン1989
壁が崩壊する前はほとんど人も歩いていなかった場所が、一気に名所となり、東ドイツ人や観光客であふれるようになった。壁の向こう側がのぞける展望台。

自分の中で壁崩壊の事件が一段落したとき、何としてもアンゲリカに連絡しなくては、と思った。プラハを離れて以来ほとんど音信不通で、壁崩壊前は西側から手紙を出すと、アンゲリカの家族に迷惑がかりそうでためらっていた。でも、今こそ会わなくては。

居場所がわからないので、東ベルリンにある彼女の実家に電話を入れてみた。電話口に出たのは、お兄さんだった。私はつたないドイツ語で、今西ベルリンにいることと、アンゲリカに会いたいことを告げた。お兄さんは驚いた様子だったが、アンゲリカへの伝言を約束してくれた。アンゲリカは電話のない東ベルリンのアパートで一人暮らしをしているとのことだった。ほどなくして、彼女から電話があった。なつかしいドイツ語なまりのチェコ語だった。私は住所を聞くと、夫とアンゲリカのアパートを訪ねることにした。

その頃、ベルリンを覆っていた一種の興奮状態に私まで染まっていたのだろうか。4年ぶりにアンゲリカと再会したら、思わず抱擁して顔は涙に濡れるかと想像していた。だが、「Ahoj!(アホイ)」というチェコ語の軽い挨拶に、こちらはすっかり拍子抜けする。私は夫を紹介した。ドイツ語とチェコ語を混ぜながら話しをすることになった。アンゲリカは、妙に言葉少なだった。

ベルリンの光と影
ベルリン1989
大人でもなかなか削れないほど硬い壁を、少年が一心不乱に金づちと、のみを使って破片を取ろうとしていた。壁の表面の絵がついた破片は人気で、露天でもよく売れていた。
ベルリン1989
壁が開いて間もなく、社会科見学だろうか、子ども達と引率する先生をブランデンブルグ門近くで見た。
中央の子どもがベルリンの壁の破片を高く掲げている。
ベルリン1989
壁が崩れて数日経った頃。間もなく跡形もなくなるであろう、ブランデンブルグ門西側の壁の前で撮影。すでに壁の所々が削られているのがわかる。

「壁が開くなんて、すごいね!プラハからベルリンへ旅した4年前は、想像もできなかったよね!?」
薄暗くなっていく部屋で、私は明るい話題を続けようとしていた。だが、手放しで喜べないのよ、とアンゲリカは言いたげな顔をしていた。チェコ語が思うように出てこない言葉の問題があったのか。もっと時間をかけてふたりきりで話しをすれば、あるいは彼女の胸の内が聞けたかもしれない。その日は、とにかくアンゲリカに再会できたことが嬉しくて、西ベルリンへ遊びに来てね、と言い残してアパートを後にした。

大学時代、神学部に在籍していた彼女は、ライプチヒで起こっていた教会を中心にした市民運動に関わっていたのかもしれない。資本主義の波が東ドイツに押し寄せ、東ドイツがそっくり西ドイツに飲み込まれそうな状況に、様々な思いが去来していたのか。語ろうとしないアンゲリカの気持ちを、あれこれと考えながら西へ 帰ったのだった。

連日のように新しいニュースが発表される混沌としたドイツ、そしてベルリン。テレビがなくては、とても追いつけないと思い、ドイツ人の友人に付き添ってもらって、トルコ人の経営する中古家電店でテレビを入手した。部屋に取り付けてさっそくスイッチを入れてみた。映りの悪いテレビのアンテナを調整している と、「チェコスロヴァキアの首都プラハからの中継です」というアナウンサーの姿が。背景には、プラハの町と大規模な市民デモの光景が映し出されていた。
「ついに、チェコスロヴァキアの人々も、声を上げた!」
私は、自分の体の血が逆流するように感じて、目頭が熱くなった。

ベルリン1989
ブランデンブルグ門の前の壁は、厚さが3メートルほどもあった。壁崩壊直後しばらくは、東ドイツの国境警備兵が警備する姿が見られた。

決してなくなることはない、と思われていたベルリンの壁を崩壊させた民衆のエネルギー。それは、東ドイツに留まらず、ものすごい速さで近隣の東欧諸国へも波及していた。私達が居合わせたベルリンの壁崩壊という歴史的大事件は、大きな時代のうねりの、ほんの始まりに過ぎなかったのだ。