母国で想い馳せたはるかかなたの国、チェコ
絵本の中のふたつの世界
バビチカと母と妹と一緒に写真館で撮影した記念写真。バビチカは、チェコにいたとき私達にとって唯一“おばあさん”と呼べた人。旦那様を心から愛していたのに先立たれたと、子どもの私達にもよく語っていた愛情深い人。

日本に帰ってしばらくは、自分の生まれた国にもかかわらず、異国のように感じることがあった。3年ほどチェコに暮らしただけで、それほど向こうに馴染んでしまったのだろうか。
「ねえねえ、チェコってどこにあるの?」「チェコでは何を食べてるの?」
日本の小学校ではきっとみんなの質問攻めにあって、どこからチェコのことを話してあげたらいいのだろう?帰国する前は、そんな浮かれた想像をしていた。ところが、外国から帰った転校生の私は異星人の扱いで、波が引くようにクラスメートが私から遠ざかっていくのがわかって、幼い心にショックを受けていた。

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「最初に住んだプラハ10区のアパートの私の部屋。ランプはノヴァークさん手作りの物で、プレゼントされた。70年代のチェコのぬいぐるみは、今思うとどれも素朴な作りだったが、愛らしかった。後に妹と交換した大きい方の赤いキツネのぬいぐるみも、棚に収まっている。

大家族の一員になった私は、いとこと遊ぶうちに学校での出来事は、すぐ気にならなくなった。それでも、夜ふとんに入ると、赤いキツネのぬいぐるみを相手に会話をするようになっていた。思いは、はるかかなたの国チェコに飛んでいた。
「私ってチェコでは外国人だったのに、学校でみんなにやさしくされたよね」
「いつか、きっとチェコに行こうね。バビチカやノヴァーコヴァーさんどうしてるかな?みんなに会いたいね」
(チェコへ行きたい・・・)そう思わない日は一日もなかった。その気持ちはどんどん自分の中で大きくなる一方だった。日本でチェコとの接点を探そうとしてもむなしく、それは時々届く親からの手紙や絵葉書、写真ぐらいだった。

チェコの絵本に見つけた接点
絵本の中のふたつの世界
日本の出版関係の皆さんと絵本作家ズデネック・ミレルさんに初めてお会いした2001年。ミレルさんは、とても気さくで、ダンディーな方という印象を受けた。もぐらくんの絵本が出版されることは決まっていたが、編集上の微調整が必要で打ち合わせを行った。レストランへ行った帰り道に。

そんなある日のこと。数冊持ち帰っていたチェコの絵本を開いてみた。すると、不思議と心が落ち着くのだった。絵本を開いたとたん、紙から漂うなつかしい匂い。
私は自分がチェコの家の居間のソファーに座っている気になった。キッチンからはバビチカ(おばあさん)が妹と何やら話しながら料理をしている気配がした。コンソメスープの煮えるいい匂いまでが、まるで辺りに漂ってくるようだった。
時々、そっと声を出してチェコ語を読んでみた。途切れながら読むチェコ語も、自分の耳にはなつかしく響き、かえって胸がしめつけられた。
こうして、日本に持ち帰ったチェコの絵本はいつの間にか、私とチェコを結ぶ接点となり、いつでも絵本を通して私の心はチェコへと飛んでいくことができた。
中学1年のとき、両親と妹が帰国して東京へ戻ってもチェコへの思いは募る一方で、チェコの絵本を翻訳する仕事がしてみたいという、より具体的な夢のようなものを持つに至ったのはこの頃だ。

私の中に育った“チェコ”
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2007年11月、チェコの絵本作家ヨゼフ・パレチェク、リブシェ・パレチコヴァー夫妻が来日した際に、通訳を仰せつかった。ちょうどパレチェクさんの「ちびとらちゃん」を翻訳した直後で、作家の素顔に触れることは大いに刺激になった。「ちびとらちゃん」の原画展が行われた渋谷パルコのロゴスギャラリーのトークショーには、たくさんの人が詰めかけた。
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東京に滞在中、過密スケジュールだったパレチェクさん夫妻の、つかの間の観光先は浅草。とてもいいコンビのご夫婦なのだが、買い物好きの奥様とそうでない旦那様のコントラストが、はたから見ていてもおかしかった。「私はこんなに性格のいい人を他に知らない」とは奥様の弁。

2002年に「もぐらくん」の絵本が出版されると、思い切ってチェコの絵本をリュックにしょって出版社へ売り込みに出かけた。ぜひとも日本に紹介したいと思っていた絵本の数々。リュックには、あふれんばかりのチェコへの思いも詰めて。
そして、「おとぎばなしをしましょう」「こえにだしてよみましょう」「ありさん、あいたたた…」(*2)の3冊が編集者に気に入られて、思いがけず出版の話がまとまった。

字幕翻訳や通訳の仕事をしながらも、最もやりたかったチェコの絵本の翻訳ができるようになって、子どもの頃の自分の思いが果たせたような気がする。翻訳家としてはまだまだ駆け出しで、恥ずかしい失敗も経験した。それでも、一般書よりも絵本の翻訳が自分に向いているのでは、と思うことがある。それは、子どもの時にチェコの大人に話しかけてもらったときの、あるいは友だちと遊んだときに聞いていた、生活に根ざした言葉のニュアンスがずっと今でも耳に残っているからだ。
チェコの絵本を翻訳しながら、私はいつのまにか、子どものころの自分に会いに行っているのかもしれない。昔なじんだ言葉の響きとなつかしさ、心地よさ。チェコの文化をもっと日本に広めたい。チェコの絵本の紹介は、ひいては私を育んでくれたチェコの人々への恩返しになってくれればと、そんな思いに支えられて絵本の翻訳をしている。
(*2)
「おとぎばなしをしましょう」「こえにだしてよみましょう」
 フランチシェク・フルビーン文、イジー・トゥルンカ絵
「ありさん、あいたたた・・・」ヨゼフ・コジーシェク文、ズデネック・ミレル絵