子ども時代からこれまで、チェコでは多くの友人や先生に恵まれた木村さんでしたが、なかでもどうしても忘れ難い、一人の女の子がいました。同じ時代を生きているのに、会うこともままならず、年月が経ちました。子どもの頃に経験した別れと、念願かなっての再会は、木村さんに何をもたらしたのでしょう。

チェコ語と日本語の間で

 義務教育が9年制のチェコスロヴァキアで、3年生から5年生まで通っていた学校はプラハ10区のV Olsinachにあった。日本のように○○小学校、という風に名前はついていない。プラハに住み始めた1970年ごろは市電とバスのみが通る、のどかな地区だった。歴史を感じさせる校舎は、地下鉄のStrasnicka駅ができた今なお、同じ場所にどっしりと腰を据えている。
 当時は日本人学校がなく、10人足らずの日本人小学生はインターナショナルスクールに通っていたが、私だけは父の方針で現地校に入った。

ミーシャ
1970年9月からチェコの小学校の3年A組に通う。チェコの小学校の新学年は9月。母がこの時一緒に写っているのは、チェコ語を習得しようとして私のクラスの授業に出ていたから。

 自宅から学校まで、歩道も広い並木道を一直線に歩いて10分足らず。ひとクラス20名ほどのA組の担任は、ブロンドの30代の女性、ダナ・フリーノヴァー先生だった。
 フリーノヴァー先生は、初めのうちは午前中の授業が終わると、毎日自宅まで来て1年生の教科書を使って私に熱心にチェコ語を教えて下さった。

ミーシャ ミーシャ
参観日の教室風景。机はふたりで使う長いタイプ。 体格が良く明るい男の子オタ(写真中央)は、この頃からアイスホッケーをやっていて、将来選手になることを夢みていた。

 母が大学の建築学科の聴講生となって忙しくなると、ピアノの先生のお母さん“バビチカ”(チェコ語でおばあさん)が住み込みで、私達の面倒を見てくれることになった。私と妹は、バビチカの作るチェコ料理を食べ、寝る時もバビチカにお話しをせがむ毎日。保育園に通う妹とは、次第にチェコ語で話す方が多くなっていたが、親に見つかると日本語を使うよう厳しく言われた。

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クラス全員で白雪姫をやった時のシーン。継母の役は、隣の座だったクラスで一番勉強ができたイレンカ。 親友ミーシャの役は小人。左から3人目の、ひげをつけていないのがミーシャ。右から2人目が王子役のヴラージャ。
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クラスで一番の腕白ヴァシェックが、村のおばさん役で登場して拍手喝采を浴びた。 最前列左からエヴァ・パルシコヴァーさんとイレンカのお母さん。
突然の父の提案

 日本語の補習授業に週に1回出ていたものの、いざ日本に手紙を書こうとすると思うように漢字が書けなくなっていた。そんな私を心配したのだろう。ある日、父は神妙な面持ちで切り出した。
「このままチェコにいると、帰国してから日本の勉強で苦労をすることになる。家族と離れて暮らすのは寂しいだろうが、先に帰国して親戚の家から日本の小学校へ行ってはどうだろう」
 すんなりとその提案を私が受け入れたのは、日本でも楽しい学校生活が待っていると信じていたからだった。

 1973年2月、チェコ滞在が2年半になった頃、私は帰国することになった。学校の近くにあったホテル・ソリダリタ(“ソリダリタ”はチェコ語で連帯)の会場を貸切にして、両親は私のために盛大なお別れパーティーを開き、大勢の友人知人を招いてくれた。

ミーシャ ミーシャ
5年生の時、ひとりで日本に帰ることになり、両親はホテル・ソリダリタでお別れパーティーを開いてくれた。一番左がミーシャ。 左から私、イレンカ、妹、エヴァ、ヴラージャ。

ミーシャ
お別れパーティーには、親交が深かった友人のご両親や知人も招いた。左から2人目がフリーノヴァー先生。その隣がヴラージャの両親。一番右はミーシャのお母さん。

 最初に友達になったヤナの家族のノヴァーコヴァーさん夫婦、お向かいの団地のギリシャ人、アティンカの家族、ミリチーンできのこ狩りをしたピアノの先生や息子のイェルカ、親友のミーシャとお母さん、冒険ごっこやスキーに付き合ってくれた男の子ヴラージャ、勉強をいつも面倒みてくれた優等生のイレンカ、そしてフリーノヴァー先生、お兄さんのように慕っていた建築学科の学生ミロニュ。私達の大事なチェコのおばあちゃんバビチカ。「日本に帰っても、元気でね」と別れを惜しんでくれたが、私はまたすぐチェコに来られるような気がしていた。

“チェコ菌”

 帰国して東京で数日間を過ごした後、父の郷里へと移動した。登校初日。先生は私をチェコスロヴァキアという遠い国からひとりで帰国したと紹介してくれた。だが、クラスの子ども達の反応は予想に反して冷ややかなものだった。ヨソから来た者への恐れからか“チェコ菌“と男子生徒に言われ、女子も私を遠巻きに見ているだけで、誰も話しかけようとしなかった。大きな体でぎゅっと抱きしめてくれたフリーノヴァー先生や、ねえ日本の話をして、と目を輝かせて集まってきたチェコの同級生を思い出し、その落差に驚くと同時にある疑問が生まれた。(どうしてチェコで外国人だった私は親切にされて、日本では同じ日本人から仲間はずれにされるの?)

夢に現れた私のこころ

 6年生の夏休みを迎えたある日のこと。私はチェコ語で手紙を書く夢を見た。
「ミーシャ、お元気ですか。私は元気です。みんなと別れて日本に帰ってから、半年が過ぎました。もといた東京の小学校ではなく、お父さんの故郷の小学校に転校したので、最初は友達もできず、日本の勉強に追いつくのが大変でした。
ミーシャとは、食堂のランチがいやで、ポテトサラダとパンを買ってお店で食べたっけね。フリーノヴァー先生と、クラスのみんなは元気ですか?
 今すぐにでもチェコに飛んで行って、ミーシャとドブジーシで過ごせたら、どんなにいいでしょう。ドブジーシでは池の向こう岸まで、大人にないしょで泳いだよね。ああ、大好きなチェコ。でも、日本からはとってもとっても遠いのです」

ミーシャ ミーシャ
担任のフリーノヴァー先生が夏の間過ごす、ドブジーシに私達姉妹もしばらくお世話になった。中央にいるのが先生の旦那さんのフリンさん、その右にはドブジーシのフリンさんのご両親。 ドブジーシのフリンさんの家の中庭にはニワトリ小屋があり、毎朝卵を産んでいるかどうか妹と競って見に行った。家庭菜園もやっていて、ピクルス用きゅうりの収穫が楽しかった。

 ミーシャに会いたいという、ありったけの気持ちを込めて手紙を書いている夢の中の自分。
 目がさめると、ねっとりとまとわりつくような寝汗と、もあっとした湿気を含んだ空気に「ああ、ここは日本なんだ……」とがっかりして、汗とも涙ともつかない濡れた頬をぬぐった。

ミーシャ
ミーシャは、ドブジーシに両親の別荘があったので、学校だけでなく夏休みも毎日のように遊んだ。
 目をつぶれば、ミーシャの姿が浮かんだ。私の一番の親友で髪はブロンド。やせっぽちで、身長は私と同じくらい。学校の帰りに「や〜い、モンゴル人!」などと私がからかわれるものなら、見上げるような上級生の男子生徒にもひるまず、 「今、なんて言ったの? 彼女は日本から来ているのよ。でたらめ言わないで!」 と言い返す元気の良さは『長くつ下のピッピ』の主人公ピッピのように頼もしかった。
 「ミーシャに会いたい。ミーシャは今頃どうしているかな……」