ミーシャの家へ
ドブジーシつながり
プシーブラムのマサリク広場に面した歴史的建造物に、ミーシャ一家が住んでいる。
文献に初出するのが16世紀半ばという。町はずれの、丘の上にある聖母の巡礼地スヴァター・ホラに行った時のこと。ミーシャの夫がプシーブラムの町が描かれた壁画を指して、現在の家の基礎となった建物を教えてくれた。

 裏庭には駐車スペース、物干し、夏用にテーブルといすを置く場所があった。見上げると、古そうな2階建ての建物で、地方都市によくある、小ぶりな美術館といった風情だった。幅1.5メートルほどの石の階段を上っていくと、2階に広い玄関があり、そこで靴を脱ぐと、幅が3メートルはある廊下を進んだ。そして、通されたのが広いリビングだった。日本の平均的な家族が住むマンションがそっくり入りそうなチェコでもお目にかかったことがないような広さだった。階段を上りながら、壁の厚みなどから古い建物であるとは思っていたが、リビングの窓辺に近寄って外を見れば、正面にマサリク広場の教会が見え、右に目を転じれば、買い物客でにぎわう歴史的な小路を見晴らせる、すばらしい場所だった。びっくりしている私と母のところへ、大柄でにこやかなミーシャの夫ズデニェクが現れた。ミーシャに呼ばれて、修理中の屋根から降りて来た、ということだった。じきに、ミーシャ似の高校生の息子と、中学生の娘が学校から帰って来た。

ドブジーシつながり
ミーシャ夫婦と子ども達と。食卓には母の作った日本食が並んだ。

 コーヒーと、ミーシャの焼いたお菓子をいただきながら、どうしてこの歴史的価値の高い家に住んでいるのか、質問しないではいられなかった。すると、ズデニェクは説明を始めた。最初にこの建物の記述が登場するのは、1600年代の半ばで、ズデニェクの祖父が、子どものいない伯父から遺産をもらって、1912年にこの建物を買い取り、鉄工所を営んでいたという。祖父はその後、第1次世界大戦、第2次世界大戦中もなんとか無事にやり過ごしていたのに、私有財産を禁じる共産党政権時代に国に建物を没収され、廃業に追い込まれた。ズデニェクが小さい時は、この家には複数の家族が住むことになり、不本意ながら元の所有者であるズデニェクの家族も家賃を国に納めていたという。
 1989年に共産党政権を崩壊させたビロード革命が起こった後、この家は再びズデニェクの家族が所有することとなった。当時、プラハの小さなアパート暮らしで子育てしていたミーシャ夫婦は、その大きな建物をどう生かそうかと相談し、ともに会社員を辞めてプシーブラムに移り住んで花屋を開くことにした。花屋は、つい数年前まで何人か人を雇いながら続けていたものの、他店との競争が激しくなったことや、早朝1時に起きる生活にもそろそろ見切りをつけようと思っていた矢先、ある人から銀行に建物の1階を貸しませんかという申し入れがあり、銀行に貸すことになったという。ズデニェクは、スラスラと表情豊かに淀みなく説明してくれた。

一人一人の背にある歴史

ドブジーシつながり
プラハ近郊の村で馬の飼育をする同級生エヴァとミーシャを招いて日本食でもてなした。
ドブジーシつながり
小学校の友達とは、時空を越えて無邪気になれるのが不思議で心地良い。
 説明を聴き終わった時には、長編映画を見終わったような気分だった。それにしても、チェコの人はなんて波乱万丈な人生を送ってきたのだろう、と鉄工所をやっていたおじいさんやその家族の体験したことに思いを馳せた。ビロード革命後に突如、祖父の遺産が舞い込んだズデニェクは、さぞ贅沢な暮らしをしているのかと思いきや、そうではなかった。ズデニェクもミーシャも、共にすごく働き者だということは、すぐに見て取れた。古くて大きな家なので、引っ越してきてから家をいじらない時期は一時もなかった、家の修繕でずっと格闘している、と言った。壁から床から、水まわりから、少しずつ工事しながら、住める部屋を増やして来たのよ、と内装ただ中のひどい状態だった写真を次々と見せてくれた。歴史的価値のある建物に住む苦労は、写真が物語っていた。
 その晩は、大きなリビングで一家と食卓を囲んだ。チェコの夕飯といえば、パンやハム、チーズ、サラダといった軽い物が多い。母がみんなに食べさせたいと考え、ミーシャの家の台所で、天ぷらと巻きずしを作った。
 みんなはおいしいと言って、あっという間に日本食を平らげた。そして、娘さんが口を開いた。「小学校に日本人のYUKOっていう友達がいたのよ、って話は母からよく聞いていました。だから、初めてお会いした感じがしないです」と微笑んだ。

二つの世界の交差

 ミーシャの子どもたちは、ビロード革命の後に生まれた世代だ。生まれた時から物は何でもあり、海外へ出かけるのも当たり前のことだ。ミーシャの家族もエジプト旅行へ行ったりウィーンのカフェまで車でひとっ走り、と会話に出てくる。息子はオランダでホームステイ、娘は英語の語学留学・・・。
 ミーシャとズデニェクと私がかつて見て経験した社会主義の時代の話になったとき、ズデニェクが言った。「僕たちが経験した社会主義時代の話をこの子らは、信じられないというんだ。あらゆる物資がなくて、肉を買うのに寒空の下、遅々として進まぬ行列にじっと我慢して並んで買ったことや、旅行の自由や表現の自由もなかったことなんて、いったいどこの世界の話?という顔で聞いているんだよ」
 それもそのはずで、2010年といえば、ビロード革命から21年の歳月が経っている。幸せそうなミーシャの子どもの様子と、それを見守るミーシャ夫婦。ミーシャの子ども達も想像がつかないような、かつての社会主義時代のチェコで暮らした日本人の私が、一番の親友ミーシャと今になって「あの頃はさあ・・・」と共通の体験を話し合っている。この得も言われぬ不思議な感覚は、26年ぶりの再会があったからこそ。私の留学中になぜお互いに連絡を取り合わなかったか、なんて誰も聞かない。お互い違う世界で生きてきたけど、これまで無事で良かったね、と今は素直に喜べるのだ。ミーシャやズデニェクの家族の生い立ちを聞いて、人生なかなか捨てたもんじゃないな、面白いな、と思えるのだった。

ドブジーシつながり ドブジーシつながり
ドブジーシからプラハに戻っていたフリーノヴァー先生を、ミーシャと母と訪ねて、26年ぶりの再会を果たした。 フリーノヴァー先生は80歳近くなって、むしろ可愛くなった印象。
ドブジーシつながり ドブジーシつながり
先生お手製の、くるみのたっぷり入った焼き菓子。 先生は、私のプレゼントしたスカーフをすぐ首に巻いて見せてくれた。
ドブジーシつながり ドブジーシつながり
リビングは、ほっとするような昔ながらのチェコらしいインテリア。 ミーシャとフリーノヴァー先生と一緒に会える日が来るなんて夢のようだった。