2004年6月の半ば過ぎから、約2ヶ月間にわたりチェコのプラハに滞在していました。この夏のことをご報告します。

ソウル―プラハ
2004年、プラハ 夏
サッカーのヨーロッパ選手権の準決勝、チェコ対ギリシャの試合当日。旧市街広場に特設会場が設けられテレビで中継された。私たちは近所のビアホールで、おじさんたちに混じってチェコを応援するも、あえなく敗退。プラハは、火が消えたように静かな夜になった。

大韓航空のソウル―プラハ便というのを利用してプラハへ入ってみた。今年の5月、アジア初のプラハ直行便がソウルから就航……と謳っているのを知って、“アジアからプラハへひとっ飛び”をぜひ体験してみたかったのだ。
今まで空路プラハへ入るのには、ヨーロッパのどこかの都市で必ず乗り換えていたが、時差の関係で眠い上に、乗り換えは何かと気が張る。だから、ソウルを発ったらあとは眠っていても、プラハまで行ってくれると思うと、気分的に楽で疲れが少ないような気がした。
到着間際に流れた日本語のアナウンス「間もなくプラハのルジニェ国際空港へ到着致します」を聞いて、アジアとチェコの距離がグッと縮まっていることを実感し、感慨深かった。

プラハに拠点
2004年、プラハ 夏
私たち姉妹にはお兄さんの存在である舞台美術家、MILOŇ KALIŠ(左)の舞台美術展。

プラハの空港に妹と私を出迎えてくれたのは、私たちが子供の頃からお兄さんのように慕っているMILOŇ という、母の大学時代の同級生だった。
「お母さんが、アパートで待っているよ」というMILOŇの車でアパートへと向かった。
「プラハに、鍵ひとつあればいつでも行けるアパートがあったらいいね〜」、と母と会話を交わしてから7ヶ月後、それが現実のものとなっているなんて!
車をアパートの前につけて見上げると、バルコニーから手を振る母がいた。私たちの姿を見て、ホッとしたのかその目には涙があった。母から、信じられないような偶然のいきさつがあって、このアパートを借りられたと聞いていたので、実際に見ると感激もひとしおだった。

2004年、プラハ 夏
右中庭に面した静かな部屋に、アンティークの家具を入れた。

プラハ3区のアールヌーボー建築群に建つ、築約100年の広々とした3LDKのアパート。玄関を入ってすぐにサロンになるスペースがあり、そこから各部屋へ行ける。ドアに、作曲家ドヴォジャークやスメタナの顔が彫ってあるガラスがはめ込まれている部屋もある。アパートができた当時から残る貴重な物で、いい雰囲気を出していた。
だが、アパートに感激してくつろいだのは、到着した日と翌日だけだった。ベット、クローゼット、テーブルセットなど家具や家電などの大きな物。また小さなバケツひとつを買うのに、チェコはまだまだ大変な国なのだった。日本なら100円ショップで売っているようなものが、なかなか見つからない。アンティーク屋、大型ショッピングセンター、郊外店、デパート。いったい何軒の店を探しまわったことだろう。

2004年、プラハ 夏
食料庫のドアが、閉じたきりで開かなくなってしまった。大家さんや近所の人に頼んだところ電気ドリルが登場し、何とかこじ開けてもらうことに。

追い討ちをかけるように、思いがけないことも起こるのだった。ある朝、キッチンの食料庫のドアが鍵もないのに閉まったきり開かなくなった。足掛け3日、男性4人がかり。最後は電気ドリルで壁に穴を開けてドアは開いた。ガス給湯器が不調で、バスタブに入っている最中にお湯が出なくなる。3度も同じ職人さんが修理に来た。玄関のドアを補強してもらうのに、ドアを1週間はずして持って行きます、と真顔で言われてあわてて他の方法を考えてもらったり、というような信じられない話も日常茶飯事。

とにかく夏は人を捕まえるのにひと苦労するのだった。昨日までいた人が今日からバカンスというと、2週間や3週間その件はペンディングになる。「まったく思うように事が進まない!」と憤慨したところで状況は何ら変わらない。本当に、交渉の連続と忍耐という、まさに戦いの日々。こうして、少しずつ部屋が整っていったのだった。

変わりゆくプラハ
2004年、プラハ 夏
旧市街で夫が発見した、小さな顔がたくさんついた不思議なドア。なぜこんなものを作ったのかは謎。
2004年、プラハ 夏
通り雨の後、ヴルタヴァ河畔にてフラッチャニ城を眺めながらチェコビール。骨董店で手に入れたものを、テーブルに出してみる。中央にあるのは、70年ほど前のコーヒー入れ。

6月に、ベルギーから母の友人3人がプラハを訪れた。観光名所をひと通り案内しようと、カレル橋を6人で渡ろうとした。週末でお天気も良かったのだが、カレル橋の上が満員電車並みの混雑で、とうとう途中で3人とはぐれてしまった。こんなに混んでいるカレル橋を渡るのは初めてのことで、留学していた80年代のしずか〜な、人気のないカレル橋とはあまりにも様子が変わっていた。

プラハ城内を見学するにも、今はインフォメーションで、何ヶ所かをまとめて見るチケットを購入しなくてはならず、友人はそのために30分並んだ、とこぼしていた。
カフカが住んでいたという黄金小道の入り口には、昔なかった柵のようなものができていてチケットをチェックする人がいることにもびっくり。ここも、原宿の竹下通りのような混雑ぶりで、小さな家々をカメラに収めようにも人しか写らないのであきらめた。

チェコにはもともと歴史的な遺産が多かったにも関わらず、国が閉ざされていた時代にはあまり建物も修復もされず、放置されていた。それが、今や眠りから覚めたチェコを見ようと観光客は押し寄せ、それに呼応するように建物に手が入れられ、店ができてきた。次第に観光大国に変貌していくチェコの様子が、プラハだけでなく、久しぶりに訪れたチェスキー・クルムロフやクトナー・ホラでも見られた。

チェコで出会った人々
2004年、プラハ 夏
Lit Moon Teatre Companyのハムレット役の俳優と奥さん(左のふたり)、出版社の知人(右)が我が家へ遊びに。
2004年、プラハ 夏
MILOŇと母の友人の画家夫婦、IVAN BRTNÁと奥さんŠÁRKAの別荘に招かれる。親の代が作ったかわいらしい別荘と、りんごの木や胡桃の木がたくさんある広い庭で、ワインを飲みながらおしゃべりを楽しんだ。

プラハは小さな町だなと思うのは、知り合いにばったり町中で出会ったりするときだ。地下鉄のエスカレーターで前に立っていた男性を何気なく見上げると、18年ぶりに会う精神科医のJさんだった。散歩の途中、大きな家の門の前で草むしりしているご婦人に声をかけたら、その方が大阪で5年ほど前に会ったDさんのお母さんということがわかり、Dさんとの再会を果たしたり……。

MILOŇがが、アメリカのサンタバーバラのLit Moon Teatre Companyの芝居「ハムレット」の台美術を担当し、7月に劇団員がプラハのDivadlo U Hasičůで英語による公演をした。役者は4人だけ、監督とスタッフを入れても9人という小さな劇団。MILOŇの家でのホームパーティーや二日間の公演、バスを借り切ってクトナーホラへ遠足へ行ったりと行動を共にしていたので、すっかり打ち解けて別れるのがつらくなった。短い時間にチェコでアメリカ人たちとこんなに気持ちが通じるようになるとは、自分でも思いもよらなかった。

先日来日して、渋谷でライブを行った際にすっかりファンになってしまったTRABANDというチェコのバンドと会うことができた。彼らがレコーディングの日、スタジオ近くのカフェでリーダーであるヤルダともうひとりのメンバー、そして仲間や家族がご飯を食べているところへ少しだけお邪魔した。今秋、日本へ公演に来るかもしれないと聞いていたので確かめたが、まだ未定とのこと。初めて行った日本の印象を聞くと、「日本は、今まで見たこともないまるきり違う世界だから面白い」と言っていた。残念ながら、私のチェコ滞在中はプラハでのコンサートは開かれなかった。日本でも人気の出るグループではないか、と密かに思って応援している。

プラハ―東京
2004年、プラハ 夏
近所の水道局の敷地にのら猫が10匹ほど住んでいて、毎晩えさをあげにくる人が何人かいる。散歩に出かけた時にこの人に出会う。ルーマニア育ちのチェコ人で、ルーマニア語とフランス語の通訳として長年働いていたという人生話を、いっしょに猫にえさをあげながら伺った。

母がアパートを借りて、プラハにひとつの拠点ができるまでたどった紆余曲折。そして、ここを舞台にこれから繰り広げられるであろう様々な交流。プラハを飛び立ったとたんに、これらいろいろな思いが頭の中をかけ巡った。私にとって日本もチェコも大事なふるさと。ふたつの国の距離が一層近くなることに期待を込めつつ、チェコへのアンテナを、これからも張っていきたいと思っている。