舞台は木村さん一家がプラハに到着した1970年8月。
8歳だった木村さんがチェコの子どもと初めて会話を交わした、夏の日のお話です。

ぽーんと放り込まれたチェコ語の海
コロビェシカ
住んでいたマンションの下で、はじめてできたチェコの友達(右から)アティンカ、マルシカと共に。マンションの向かいの棟に住んでいた彼女たちとは学区が違い、私だけ別な小学校へ通った。

「チェコに行ったら、英語がペラペラになるんでしょう?」
日本を発つ前、小学校の同級生に言われた。
英語も何語もよくわからないのに、私の場合はいきなりチェコ語の海へ、ぽーんと放り込まれてしまった。

そのせいか、はじめてチェコの子どもたちと話そうとした夏の日のことを、今でもはっきりと憶えている。
プラハへ到着した8月の、天気のいい日のことだった。マンション3階のキッチンの窓から外を眺めると、まっすぐに伸びた並木通りを行く人も車もまばらだった。夏休みで人が少なかったせいもあるが、東京のごちゃごちゃした住宅街から来ると、プラハの住宅地はとても広々して見えた。

コロビェシカ
ヤナの両親ノヴァーコヴァーさん夫婦より贈られた、赤いキツネと犬のぬいぐるみを抱いて。チェコへ着いてまだ間もないころ、誕生日でもないのに、すてきなぬいぐるみをもらって感激した。いつもよくしてくれたノヴァーコヴァーさん一家のことが、私たちも大好きだった。

反対側のベランダに出ると、向かい側のマンション棟との間で、子どもたちが自転車に乗って遊ぶ姿が見えた。家の中にいることに、とっくに飽きていた私は、幼い妹をつれて思いきって外へ行ってみることにした。
マンションから表に出ると、じめじめした日本の夏とは違うさわやかな空気に包まれた。小学校1年生から6年生ぐらいまでの4,5人が自転車や、日本で見たこともないような乗り物にスイスイ乗って遊んでいる。
(楽しそう! 片足で乗って、片足で地面をける、その乗り物は何だろう?)
うらやましくて自分も乗ってみたいのに、ひと言もチェコ語ができないことに気がついた。

はじめて出会ったチェコの子どもたちに囲まれて…!!

しばらく妹とぼんやり子どもたちの様子を見ていたものの、ついに勇気をふりしぼって、その未知の乗り物に乗っている子どもに近づいていき、話しかけてみた。
「アナタノ、ソレ、ワタシニ、カシテクレル?」と、手まねでやってみる。アジア人は珍しかったとみえて、たちまちまわりに子どもたちが集まってきた。
ブロンドの子、巻き毛の子、中にはアジア人には見えないのに髪も目も黒い子もいる。よく見ると、3年生ぐらいの男の子だと思っていたショートヘアの女の子は、耳にピアスをしていた。(子どもなのにピアス?)チェコの子どもを間近で見るのも、じっと見られるのも驚きで、ドキドキした。

コロビェシカ
コロビェシカ
チェコの絵本には時々、子どもの乗り物「コロビェシカ」(キックボード)が出てくる。ズデネック・ミレルも、詩人ヤン・チャレックの『ゆかいなきかんしゃ』の絵本の中でコロビェシカに乗る子どもを登場させた。(『ゆかいなきかんしゃ』(ひさかたチャイルド刊 きむらゆうこ訳)

「ねえ、どうしたの?」「なに、なに?」
子どもたちにとって、見たこともないアジア人の私が何を言っているのか知りたくて仕方がない、という風だった。とっさに、私は手や表情を使って、何とか意思を伝えようとしていた。さっきやったことに、もう一度挑戦してみた。
「ソレヲ、ワタシニ……」と、乗り物をしっかり指で示しながら次に自分を指して、最後に首をかしげて“OK?”。心の中では、「その乗り物を私に貸してくれない?」と日本語で言いながらやった。
「はい」
すると、その子が乗り物を私に差し出した。
(わあ、初めてチェコ人に通じた!)
受け取ると嬉しくなって、見よう見まねで片足を台に乗せると、バランスを取りながら地面を思いっきり蹴った。その乗り物の車輪は小さくて、走るとブリキの音がカラカラカラと鳴って頼りない感じがしたが、蹴る方の足は、しっかりと地面の感触をとらえていた。
乗り物を返すとき、言いたかった「ありがとう」の言葉も知らなかったが、気持ちを込めて相手の目を見ると、なんだか通じたような気がした。
夕方、舞い上がるような気持ちで家に帰ると、初めてチェコの子どもたちに自分の気持ちが通じて、片足で蹴る面白い乗り物を借りて乗ったという、“一大事件”を、興奮して親に話して聞かせたのだった。
そんな風に体を使って表現して、kolobĕžka(コロビェシカ)という2輪のキックボードを借りられたことが嬉しかったし、“転ぶ”とちょっと日本語と語呂が似ているので、名前もすぐに憶えることができた。

大切な友情が芽生えた夏の日々
コロビェシカ
私が8歳で、妹が3歳のころ、1歳年上の友だちヤナも誘ってプラハの動物園へ行った。
わが家は、食事や遊びに出かけるときには、こんなふうに近所の友だちや同級生をよく誘った。

それからは毎日のように、近所の子どもたちと遊ぶようになり、特に親しくなった友達がいる。マルシカは、おっとりしたやさしい女の子。ヤナは、背の高い頼りになるお姉さん。アティンカは、ギリシャ人一家の明るい子。家が近いので、お互いに遊びに行ったり来たりするうちに、友達の名前や家庭の様子もわかってきて、時に複雑なことでも伝えなくてはならなかった。
「ごはんだから帰るね」は、まだいいとしても「いったん帰るけど、トイレに行ったらまた戻ってくるから待っててね」という表現は、大変。恥ずかしがっていられないので、そういうときは手や足、全身を駆使してボディランゲージで切り抜けた。
そのうち相手から質問されると、勘がするどく働くようになって「名前は?」とか「どこから来たの?」「あなたは何歳?」に、いつの間にか答えられるようになっていた。

コロビェシカ
コロビェシカ
コロビェシカ
コロビェシカ
チェコの小学校へ転入して、初めての授業参観日。「白雪姫」のお芝居をやることになり、配役も生徒が決めた。継母の役は、優等生のイレンカ、王子様は背が高くて勉強もできたヴラージャ。白雪姫は髪が長いという理由でなぜか私がやることになったが、果たして台詞がうまく言えたのかどうか……。

「Yuko」と、自分の名前をみんなに教えたときのこと。
「Yuko」と教えたのにもかかわらず、なぜか「Yuka!」とか「Yuki!」と呼ばれるので、なんで一度で憶えてくれないのかなあ、と不思議に思っていた。ところが、チェコ語では人の名前すら変化する、名詞の格変化という大変な言葉のルールがある、ということが後になってわかったのだ。子どもは学校で教わる以前に、耳から聞いて、自然と使い方が身についているのだが、外国人とって最初からこれを理解するのは難しい。
チェコの女性の名前はJanaのように語尾がAで終わる。それなのに、呼びかけるときだけ「Jano!」と語尾がOになる。だから、女性の名前なのにYukoのように語尾がOで終わる外国の名前に、チェコの子どもはきっと混乱してYukaとかYukiと呼んだのだろう。
日本では、Yukoという名前はいつでもYukoのまま変化しない、ということを説明する術も、そのときは持ち合わせていなかった。
日本の名前には「ゆうこ」も「ゆか」も「ゆき」もあるだけに、チェコへ行って自分と違う名前で呼ばれた体験は強烈で、そのときチェコ語はかなり不思議な言葉だなあと思った。
そんな難しいチェコ語の手ほどきを最初にしてくれたのは、遊び友だちのひとりで1歳年上の友達ヤナと両親のノヴァーコヴァーさんたち。やさしいノヴァーコヴァーさんたちに会うのが私たちは楽しくて、母にとっても頼れるご近所さんとなった。
同じ敷地内のマンションに住んでいた1歳年下の友達、アティンカの家にも、家族でよく遊びに行った。ギリシャ語とチェコ語が飛びかうにぎやかな家庭で、どんなときでも、食べろ食べろと言っては、オリーブやチーズやお手製ピロシキを出してもてなしてくれた。
チェコに着いたばかりで言葉も話せなかったあの夏の日。未知の乗り物に乗りたい一心でチェコの子どもに話しかけ、生涯の友と出会ったのだった。