ドブジーシつながり

 1982年、20歳の木村さんは、訪れたプラハの街で小学校時代の親友・ミーシャと再会を果たします。物理的な距離と、言葉の壁が生んだもどかしさのなかで、“私の中のチェコを忘れないで”、というもうひとりの自分の声を聞き、チェコとの橋渡しになる仕事がしたい、という想いが心を過ぎりました。
 時は流れ、今回のお話は2010年の秋、チェコ・プラハにあるアパートの一室から始まります。

失われていた再会の記憶

 プラハにあるアパートで、私はチェコの小学校時代の親友ミーシャが来るのを今か今かと待っていた。
 ミーシャと最後に会ったのは、20歳の時だとずっと思っていた。チェコの小学校5年の途中でひとり帰国し、ようやっと10年ぶりにチェコ訪問がかなった年。
 ミーシャは、小学生の時きゃしゃだったのに、外国人の私を上級生から守ってくれる頼りになる親友だった。それが、20歳のときに再会すると、すらりとした大人の女性に変貌していて驚いた。10歳で別れて、夢に見るほど会いたかったミーシャに再会したとき、自分はチェコ語がほとんど話せなくなっていて、随分くやしい思いをしたのだった。その時に感じたチェコへの強い思いと、チェコ語ができない自分との落差にショックを受けていた。今にして思えば、それがチェコ語をもう一度使えるようになりたいと願い、留学することへの意欲につながっていたのかもしれない。

 プラハの大学に留学することが決まった1984年、9月の始業に合わせて夏にプラハへ入った。そういえばその夏、ミーシャや同級生、担任のフリーノヴァー先生と再会していた。連絡先も交換したはずなのに、なぜか留学中の丸2年間というものは、ミーシャとも先生とも会わなかった。向こうからも連絡をもらうことがなかった。私は、同じ大学のチェコ語コースに通う東ドイツやフランスから来た学生と親しくしていた。
 ミーシャは大学で経済を勉強し、すでに就職していた。社会人のミーシャと、学生の私。チェコスロヴァキアという同じ社会主義体制下に暮らしながらも、旅行の自由がないミーシャと、再入国ビザの申請が必要だけれども、行こうと思えばどこへでも行ける日本のパスポートを持つ自分。立場が違い、ふたりの間には子どもの時のように無邪気に会えない、見えない壁があるかのようだった。お互いに若くて感じやすかったのかもしれない。負い目なのか、気遣いなのか。何かが、ふたりの間の邪魔をしていたと思うほかない。
 エヴァという、やはり仲の良かったチェコの小学校時代の友人からは、折りにふれミーシャのうわさは聞いていた。勤め先で知り合った人と結婚をして二児をもうけ、ビロード革命後はプシーブラムという町で、花屋を営んでいるということだった。ミーシャがプラハにいなかったことや、忙しい商売をやっていたことも、長い年月会わなかった理由にあげられるかもしれない。会ったら、一体何から話をしようと、頭の中でぐるぐると思い巡らして気持ちが高ぶった。

「アホーイ、ミーショ!」

 アパートの窓を開け放しておいて、約束の10時半近くになると、ミーシャの車が到着していないかどうか、気もそぞろに窓の外から通りを見下ろした。

ドブジーシつながり
プラハのアパートに親友ミーシャが訪ねて来て、26年ぶりの再会に照れる。
 10時半をだいぶ過ぎてブザーが鳴った。私は窓から顔を出し「アホーイ、ミーショ!」と手を大きく振って、すぐに階段を駆け下りた。ドアを開けると、そこに立っていたのは、にこにこ顔の、肝っ玉母さんのようなふくよかな人、それがミーシャだった。「アホーイ!ミーショ」「アホーイ!ユーコ」ぎゅっと固く抱擁して、それからお互いの顔を見たのだが、胸がいっぱいで、もう何を言ったのかも憶えていない。
 ミーシャに日本茶を出して、家族の近況をお互いに語りだした。ふくよかになったけれども、やっぱり歯切れのいい大らかな話しっぷりのミーシャに違いはなかった。長い年月なんぞ一足飛びに、気分は子ども時分に戻った。

再会をもたらした不思議な縁

 こうして、ミーシャと私が再会するに至ったのには、実に不思議な出会いというか巡りあわせがあった。ミーシャにも、どういういきさつでわかったの?と聞かれて私は話し始めた。
 「それはね、去年プラハで、ある人に偶然に出会ったのが、きっかけとなったのよ・・・」
 ミーシャと再会する前の年2009年の9月、プラハの旧税関を利用した大きなビアレストランで母と夫と食事をした時のことだった。トイレに立った母が、昔からお付き合いのあるチェコ在住の日本人の知人にばったり出会った。チェコ在住の日本人が5~6名で時々集まっているその会に、私たちも合流させてもらった。私の席は、初対面のKさんの隣の席だった。Kさんとの会話の中で、お住まいがプラハの南35キロのドブジーシという町だと聞いて私と母はあっ、と思わず叫んだ。Kさんの小学生の息子さんは、ドブジーシの現地校に通っていると伺い、迷わずにあることをお尋ねした。
「フリーノヴァー先生をご存知ないですか?私が昔通っていたプラハの小学校の担任の先生で、旦那さんのご実家がドブジーシです。小学生のとき夏休みをその田舎で過ごしました。ドブジーシには、私の親友ミーシャの両親の別荘もありました。今は連絡先がわからないのです」
すると、チェコの通信社の記者だったそのKさんが、フリーノヴァー先生探しを快く引き受けて下さることになった。

“Dobřišké listy”への「尋ね人」から

 フリーノヴァー先生の一件を忘れかけていた2010年2月のある日。Kさんから1通のメールが来た。世界子育て旅行中のKさん一家は、1月下旬に息子さんの教育のことで、チェコからニュージーランドへ移住したという。さらに、フリーノヴァー先生の居所がついにわかった、という嬉しい知らせだった。Kさんは、学校関係者やドブジーシに多いフリーノヴァー姓の方などを尋ねて歩いたものの、しばらくは手がかりがなかったそうだ。そこでドブジーシを離れる前に、ドブジーシで発行されている無料の月刊広報誌“Dobřišké listy”の“prosba「お願い」”というコーナーに「尋ね人」の短い記事を掲載してもらった。すぐに3件の情報が寄せられたという。Kさんからそのコピーと、寄せられたメールを読んで、私はさらに驚いたのだった。
 『ダナ・フリーノヴァー先生を探しています。1970年代の初めに、ドブジーシに先生かご両親が住んでおられ、当時プラハの小学校で、日本人の生徒YUKO KIMURAさんを教えていらっしゃいました。現在KIMURAさんは、日本でチェコ語の翻訳の仕事をしています。フリーノヴァー先生について、何かお心当たりがある方は、私までメールでご連絡下さいますよう、お願い申し上げます。K.K』

ミーシャの消息

 寄せられた情報の1通は、私と同年輩の人らしく、子どもの時、ドブジーシに滞在していた私と遊んだ記憶があるという内容だった。そのメールから先生の連絡先がわかった。
 ところが、いざかけるとなると、長年の不義理をどうおわびしようと考えて決心がつかず、またたく間に日が過ぎていった。留学中はもとより、チェコ語の翻訳をするようになってからも、先生のことを時折思い出していたが、連絡先も探さずにいた。ある日、思い切って電話をかけた。
 すると、「まあ、いつ電話かけてくれるかと待っていたのよ。私は新聞に載ったお陰で、色々な人から連絡が来てちょっとした有名人よ!YUKOはチェコ語の翻訳家になったんだったね」とあの高くて通る、ちょっと厳しい先生の声が電話の向こうから聞こえてきた。ミーシャの消息も尋ねると、もちろん知っているわよ、と先生。ミーシャの両親は、今でも夏から秋にかけての数カ月をドブジーシの別荘で過ごすので、ミーシャ一家と行き来があるようだった。すぐに私のことを連絡してくれると言った。
 電話をかけた後すぐに、私は先生に、メールアドレスも書き添えて手紙を送った。すると、ミーシャからさっそくメールが届いた。メールで近況を伝え合い、私がチェコに行ったら必ず会おうと約束したのだった。

めくるめく思い出

 「・・・こうして今日の再会に至ったというわけよ」と、ミーシャに長い説明を終えた。目の前に座るミーシャは、「偶然にせよ、YUKOがドブジーシ在住のKさんにプラハで出会わなかったら、私たちはこうして会えなかったってわけね。不思議ねえ」とつぶやいて、信じられないわという風に首を横に振った。
 ミーシャと相談していた通り、その日はドブジーシの別荘にいるミーシャのご両親の所と、その先のミーシャの家族のいるプシーブラムの自宅へ連れて行ってくれることになっていた。フリーノヴァー先生はその時、プラハにいることがわかったので、ミーシャと母と一緒に、改めて先生を訪ねることになった。

ドブジーシつながり
夏から秋にかけてドブジーシの別荘で過ごすミーシャのご両親を訪ねた。
 ドブジーシのミーシャの両親の別荘地に近づくと、次々と思い出がよみがえってきた。ミーシャのご両親は、なんともやさしい表情で私と母を迎えてくれた。私は小学生のとき、ミーシャのお父さんの車でミーシャと一緒にドブジーシへ乗せてきてもらい別荘に泊まったことがある。夏は、当時はきれいだったドブジーシの池で、対岸まで競って泳いだり、森へきのこ狩りに行ったりした。お父さんは、毎日せっせとトイレやキッチンなどの水まわりの大工仕事を、ひとりでコツコツやっていたことを、鮮明に憶えている。そんななつかしい場所だった。私は「お父さん、日曜大工のように作っていた別荘はついに完成したんですね。ひとりで完成させたのですか?」とお父さんに聞くと「この別荘は70年代に、別荘のキットというのがあったから、それを買って作り始めたんだよ。何年もかかって、ほとんどひとりで作ったのさ」と笑みを浮かべた。

ドブジーシつながり ドブジーシつながり
お父さんの手作りの別荘の中でも自慢は、はしごをかけて登る屋根裏部屋。私も昔、ここに泊まったのかな。 なつかしい雰囲気のぬいぐるみや人形たちは、お孫さんの物かミーシャの物か・・・。
ドブジーシつながり ドブジーシつながり
別荘地を散歩していらっしゃい、と言われてミーシャのご両親が見送ってくれる。 舗装されていない道と別荘地の雰囲気は、昔とあまり変わっていなかった。
級友の記憶

 白髪になったポール・ニューマン似のお父さんは、私がコーヒーを入れましょう、と言ってキッチンに立ち、声もしぐさもチェコ人には珍しくおしとやかなお母さんは、芥子(けし)の実をあんこのようにたくさん乗せて焼いたお菓子を、お皿に盛って出してくれた。歳はとったとはいえ、ミーシャのご両親のかもしだす空気は昔と変わらず穏やかだった。

ドブジーシつながり ドブジーシつながり
小学生の頃の写真や、自分の訳したチェコの絵本を見たり、話は尽きない。 ミーシャのお母さんが焼いてくれた、ケシの実のお菓子はどこか和菓子を思わせる味。
ドブジーシつながり ドブジーシつながり
ミーシャのご両親の別荘から徒歩5分の所に、私達の担任フリーノヴァー先生の別荘があるというので行ってみた。先生はプラハへ戻られていた。 子どもの時、私と妹がフリーノヴァー先生に預けられた家で、先生の旦那さんのご実家。昔はおじいちゃん、おばあちゃんがいたが、今は親戚が時々使うだけとのことだった。

 名残惜しくご両親の別荘を後にして、ミーシャの家族のいる自宅のプシーブラムまで、どれくらい走っただろう。ミーシャの運転する車の助手席に乗ると、私達は堰を切ったように同級生について話を続けた。

ドブジーシつながり
ミーシャの運転する車の助手席に座ると、同級生の消息について色々教えてくれた。
私は、20人程度のクラスメイトの名前は、今でもほとんどフルネームで言えることに、自分も驚いた。日本の同級生の名前の方が、かえって出てこない。ミーシャは、知っている限りのクラスメイトの消息を話してくれた。結婚して離婚した子、独身の子、若くして結婚して子どももいたけど、病気で亡くなってしまった子。彼らの小学生のときの顔を思い浮かべながら、それぞれの人生を思った。
 気がつくと、プシーブラムの町の中心近くまで来ていた。
 「ここは、チェコスロヴァキア第1共和国の初代大統領マサリクの名前をとった、マサリク広場というのよ。この街は、ウランの採掘で有名だったの。と言っても、社会主義時代には、ソ連に全部持って行かれていたんだけどね」と運転しながら話すミーシャ。広場から細い路地を入って間もなく、車を止めたミーシャは、大きな木戸を開けに行った。そこから裏庭に入って車を止めると「さあ、着きました。ここは家の裏口なんだけどね」と言った。