人が人に出会い、時間をかけて掛け替えのない存在になるように、その想い出に再び触れ直すこと自体にも、十分な歳月の経過が必要なのだと思います。
今回は、木村さんにとってとても尊い、チェコで出会った二人の恩人にまつわるお話です。
うちの周辺でノヴァーコヴァーさんと。 母が取っ手のついた木の壺を手にしているので、生ビールを買いにビアホールへ向かうところらしい。私が乗っているのがコロビェシカ(キックボード)。 |
「やっぱり、まずはノヴァーコヴァーさんのところに行こうよ」と母が言った。2003年の秋も深まるころ、1年ぶりに訪れたプラハで、誰の家から訪問しようか相談をしていたときのことだった。チェコへ来ると、まっさきに行かなきゃという気持ちになるのがノヴァーコヴァーさんの家だった。
地下鉄のStrašnická(ストラシニツカー)駅で地上に出ると、交差点の角には私が小学生の時に通った9年制の学校V Olšinách(ヴ・オルシナーフという通りの名前)があるのを見つけてホッとした。
同級生が多く住んでいたのは、交差点から北へ伸びるStarostrašnická(スタロストラシニツカー)通りの商店街の界隈。放課後は、親友ミーシャといちごパフェを食べたり寄り道をしたなつかしい通りだ。
チェコで最初に住んだストラシニッツェの家。右からピアノの先生、私、妹を膝に乗せたノヴァーコヴァーさん、母。左のピアノの上にはレンギョウの花が生けてあるのが見える。 私の家は、商店街とは方向が違うV Olšinách(ヴ・オルシナーフ)通りの並木道を歩いて5分ほどのところにあった。私たちがチェコへ来て最初に住んだ集合住宅は大通りに面していて、ノヴァーコヴァーさんの住む5階建ての集合住宅はその裏手にあった。お互いの住まいが5階で、30メートルぐらいしか離れていなかった。母もノヴァーコヴァーさんも、用があるとお互いの名前を窓から思い切り叫ぶことがあった。
集合住宅では、遊び相手に事欠かなかった。私たちは春には真黄色のレンギョウの枝を折って花束にして母にあげたり、雪の積もった日には坂道でそり遊びをした。ここにはいったいどれくらいの期間住んでいたのだろう。わが家はプラハに滞在した4年の間に、家が3度も変わった。最初に住んだここの集合住宅は、ノヴァーコヴァーさん一家がいたことで、ことさら思い出深いのだった。
ノヴァーコヴァーさんの長女ヤルカの結婚式に招かれて。私の隣には次女で私より1歳年上のヤナ。違う学校に通っていた。 | 私の部屋の棚に飾ってあるのは、私と妹がノヴァーコヴァーさんにいただいたクマやキツネのぬいぐるみ。 |
気がつくと、母とノヴァーコヴァーさんの家の前まで来ていた。1階のドアのそばで、NOVÁKの名前を探してベルを押す。そしてアパート最上階の5階の、あの窓を見上げた。すると窓がパッと開いて、上半身裸のおじさんが顔をのぞかせた。私たちを見ると、
「イエッシッシ マリア!(なんということだ!)キムロヴィ!(木村さんとこだ!)」驚いた顔がいったん引っ込んだかと思うと再び顔を出し、「鍵を落とすから上がっておいで」と言って、鍵を放ってよこした。
この私たちの突然の訪問に驚くふたりの顔が見たくて、いつもノヴァーコヴァーさんの家に行くときは突然行って驚かせようよ、と母がいたずらっぽい顔をして言うので、いつの間にかそういうことになっていた。
パネラークと呼ばれる戦後作られた天井は低いが、セントラルヒーティングが完備した集合住宅は、エレベーターつきもあったが、ここにはなかった。最上階までハアハア息を切らせながら一気に上ると、玄関先には体重が100キロ近いおじさんと、車椅子に乗った細い体のノヴァーコヴァーさんがドアを開けて、いつものように私たちを待っていてくれるのだった。
「アホイ、アホイ!(やあ、やあ)」とお互いに抱き合って顔を覗きこんで「元気?」と聞く。ドイツ人のように口癖の「ヤア、ヤア」とノヴァーコヴァーさんは言うのだが、ここ数年で、脊椎の持病が悪化しているのか、だいぶ背中が曲がってきたように見えた。誰よりも元気で働き者だったノヴァーコヴァーさんが、40代で車椅子生活になったことは、やっぱり気の毒だった。
うちの集合住宅の前で遊んでいる時に、わが家の車の前で記念撮影。左端のノヴァーコヴァーさんが妹を抱き、その右に友人でギリシャ人のアティンカ。私は右端にいて、後方の背の高いのがヤナ。 | 昔住んでいた集合住宅の前で妹と(1986年撮影)。70年代初めに植えられた小さな桜の苗木が立派な木になって、と母は今でもこの道を通るたびに感心する。私が毎日学校へ通った道。 |
プラハに到着して間もない夏休み、このうちの次女で私より1歳年上のヤナは9歳にして160センチくらいの背丈があり親分肌だったが、初めてチェコでできた友達だった。言葉が通じなくても毎日のように遊び、家に上がってご飯やおやつをごちそうになった。外で遊んで喉が渇くとヤナと一緒にノヴァーコヴァーさんの家に行き、おじさんが専用のボンベと容器でもって炭酸水を作る様子を見て、果物の甘いシロップ、シチャーヴァを炭酸水で割ったものを飲んだ。当時、輸入品は貴重品で、ジュースという洒落た飲み物などには手が届かなかった。
2003年、母と突然訪ねた時、偶然その日がノヴァーコヴァーさんの誕生日だった。間もなく娘のヤナと孫がお祝いにかけつけた。 | ヤナと会ったのも久しぶりのことで、なんだか昔の写真を見てもお互いに気恥ずかしい。子どもがふたりいるとは聞いていたが、娘に会うのはこの日が初めてだった。 |
ノヴァーコヴァーさんの「スープがあるよ! お腹がすいてるんじゃない?」と聞く声に、我に返って母と顔を見合わせていると
「さあさあ座って。ヤルダ、スープを温めて! 冷蔵庫に入っているローストチキンとじゃがいももね!」とテキパキと旦那さんに指示を出した。
(ああ、ノヴァーコヴァーさんちのスープだ!)と私は内心喜んだ。留学していた80年代の半ば、私はノヴァーコヴァーさんから「日曜日にお昼ご飯を食べにおいで!」というお誘いの電話をもらい、どんなに嬉しかったことか。お風呂もシャワーもセントラルヒーティングもない屋根裏のアトリエに住み、奨学金暮らしでろくな物を食べていないと心配してくれたのだろう。私は甘えることにして、商店がひとつも開いていない静かな日曜日の町を、市電とバスを乗りついでノヴァーコヴァーさんちへ行った。
行くとすぐに、「ご飯前に、バスタブに温かい湯をたっぷり張ってつかりなさい」と新しいタオルを出してくれた。お昼ごはんは、セロリの根の香りが漂うコンソメスープ。メインはまるごとの鳥の中にベーコンなどの詰め物をした丸焼き。ゆでたじゃがいもが添えてあり、シンプルなのに美味しかった。夏なら、向こうが透けて見えるような薄切りのきゅうりが甘酢に浮いている、チェコでは定番だったサラダがついた。デザートは季節の果物のコンポート。さらに、その日焼いたトゥヴァロフというチーズを使った、コラーチという丸い焼き菓子がお皿に山のように盛られていた。
たらふくご飯をごちそうになった後は、持って行ったチェコ語文法の宿題を教わりながら仕上げた。そして、必ず昼の惣菜を包んで持たせてくれた。
冬のある日曜日のこと。帰り支度をしていると、ノヴァーコヴァーさんが「スープも持っていくかい? ビンに入れてまっすぐ持てば大丈夫だから」と私に言った。ピクルスの入っていたビンとふたなので心もとなかったが、スープがこぼれないように持ち、家に無事着いた時には、外気でスープが冷やされ上澄みに薄い油膜が張っていた。それを鍋に移して温めて食べたスープの美味しかったこと! 凍えた体がほどけていくようだった。
テラスハウスの庭にて。最初に住んだ集合住宅から近かったので、私の同級生に混じって背の高いヤナの姿も見える。
チェコで2度目の引越の日。家を一軒ずつ訪問して、空いていたテラスハウスを見つけ出してきてくれたのは左からふたり目の担任フリノヴァー先生。右がノヴァーコヴァーさん夫婦。この後、壁を新しく塗ってくれたもノヴァークのおじさんだった。大勢に助けられてのチェコ暮らしだった。
食事の後は、全員で居間に移った。オレンジ色のランプのかさ、壁には油絵、飾り棚にはカットガラスの置物や、昔うちが使っていた和皿なども飾ってあった。昔から育てていたゴムの木がついに天井に達して、首を曲げているように見えた。
おじさんがコーヒーを入れてテーブルに置くと、今度は戸棚から大事そうにお手製の分厚いアルバムを出してきた。いつも決まって、この家に来ると、アルバムをめくりながら思い出話をしたり近況を聞いたりする。そこには70年代の、私と妹がチェコに住んでいた子ども時代の写真から、80年代、90年代と時を経ながらも、ノヴァーコヴァーさんの家の居間で、みんなで撮った写真がきれいに貼られていた。